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mms:archives:interview_nakamoto_hiromichi [2021/10/06 19:32]
Anar-Isil 创建
mms:archives:interview_nakamoto_hiromichi [2021/10/07 16:17] (当前版本)
Anar-Isil [データイースト流のゲーム企画や開発の手順]
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-======中本博通インタビュー======+<markdown> 
 +#中本博通インタビュー
  
-=====前半:データイーストのゲーム開発の歴史=====+##前半:データイーストのゲーム開発の歴史
  
-====データイースト流のゲーム企画や開発の手順====+###電気工作、シンセサに夢中になった少年時代
  
-Q:ラインがだんだん増えてきて、外注先ができたということでしたが、ラインを増やそうというモチベーションもあったわけですし、いろんな企画が上がってきたりということもあると思うんですけど、どういうプロセスを経て、出てきた企画が実際のラインに乗るような形だったんですか? 
  
-:まず、企画の種というの、だいたいが喫煙所からなんです(笑)。喫煙所でタバコを吸いながら、「こんなゲームあったらいいんじゃない?」とか「こういうのやりた?」「こんなこと思ってるんだけど、どう思う?」というところからスタートています。私がちょうどコンシューマーの企画をとめていた時期、定期的に企画会議を開いていまし。そこでは進捗とか、そうはもうどうもよくて、新しいメンバーが、次はういうもをやりたいとか、どいうものを作るのかとアイデアを出して、例えば「近未来鬼ごっこ」のようなキーワードを1個決めて、簡単ペラ紙にまとめるようでした。+Q:よろしお願いします。ま子供の頃から振り返っていただきたいのでが、どのなきっけでゲーム触れ合うようになったのでしょうか?
  
-で、どううシステムにるのか、どなことが面白のかを出して、「だったら、もっこうたほうがいいんじゃない?」と話合って、いくつか実になるもをまずはキャッチアップますその中から、これはいけるかも」か「これって今までになよね」いうものに関しては、いわゆる営業ですとか、社長へプレゼンするめの準備資料を作成するフェーズに入ります。ただ、この時に、多分ですけど他社さんでは「前作は何万本売れて、くらりがあった」とかKPIについて触れたりすると思うんですけど、当時データイーストの風土開発はむしろ数字には触れない。お業務用もそうだと思うんですけど、数字の話は一切出こなんです+中本:よろしくお願しま。私が住生まれた所には「としまえん」とい遊園地練馬区にござして、ちょうどそこ真裏辺りで。「とえん」の近所に住んでいと、いわゆるタダ券みたいなものが配らましたので、そこへよ遊びに行っていました
  
-それよも、「このゲームこんなに熱く面白。他社対しこんなに優位性あるんだだから俺賭けてみないか?」みたいな、う完全に属人的でしたね(笑)神谷さんと『大怪獣デブラス』のプゼンをした時は社長、役員、そして多く社員らの前で、2人してゲーム中に出す予定の踊のシーンを踊っんです。それだけ、どれだけ楽しくて面白いゲームかを、必死に訴えて企画を通したりしました。+通常の乗数が限られていますので、すぐ飽きしまうのですが、そこはゲームコーナーありました。当初はエレメカと言われている、ナムコさんですか、タイトーさんが作られたようなエメカ中心のコーナーでした、その中にもビデオゲームがあました。そこにちょっと未来を感じたみたなところが、一番最初のゲーム出会いでした
  
-ですから、データイースト独特のカラーっていうのは、会社のカラーとうよりは、個人に依存したカラーが色濃く出る形になっていました。今思うと、営業の方は本当に大変だったと思いますね。「社長がやるって言ったか、もう売るしかなだろ」って、営業からすればすごい迷惑な話ですよね。営業方が気持ちよく売れるように、ちらから営業のいる所に行ったりもしていました。営業の方がいる所には、資料がたくさんあるんですよ。各社から送られてくる雑誌ですか、展示会出回った資料とか、そういうものを利用してマーケティングの精査をるような企画会議に行って話を聞いたり、あるいは一緒に飲みに行って話を聞いたりして、そういう感覚を磨いたりもしていました。私ら見て、そういうのが一番うまかったのは野島さんですね。+Q:それは、いつぐらいのことですか
  
-野島一成さんですね。+中本年代言いますと、中学生の頃だったので74年くらいになると思います。ただ、それは単に出会ったというだけで、実際にハマったのは77年に高校に入ってからで、『スペースインベーダー』にハマったのがスタートという感じになりますね。
  
-Q:ええ。後に、ファナルファタジVIIとかを作った野島さんですね。彼は、営業とかに行ってキャッチアップするのがうまかった企画でたね。逆に、営業とかにも一切行かなく我が道を突き進む、もう「ゲーム道」みたい自分で極める感じでやっていが渡辺さんという企画で、『サントデバッカーズ』と、すごい特殊過ぎて「マニアでもちょきねえよ!」というようなゲームとを作る、いろいろなタイプの企画がいました。+Q:『スペースインベーダー』は、1978年登場して大ブームなっていますよね?そのインパクはやはり大きかったん
  
-そんな企画のメンバーちの個性というのが最終的に会社カラーになっていったのかなと思いす。の企業では考えられKPI無視のやる気重視で(笑)、俺を信じろ型の開発でした。マーケティングの真似事みたいなちゃんと勉強しようということでいろいろなポジショニングマップを作ったりとか、今いるお客さんを、「この象限からこっちの象限に引上げためは、このタイトルを出すんだ」みたいこともやったんですけど、それはあくまで自分の話を聞かせるための説得材料として使っていたで、本気でマーケティングをした言うよりは、自分の企画ため利用していたというのが実態はなかったかと思います。+中本:大きかっですね。高校時代当時中がほど厳しくくても普通に放されても安全町だったコンビニエンスストアだかも24時間営業いろいろな夜遊びができるようになっていた時期で、友人時間すのに『スペースインベダー』かがちょうどよく、まあハマっていたというところです
  
-Q:ータイーストでは直営店つまゲームセンターをマーケィングに利用しなかったでしょうか?+それから機械、ッキいじりが元々大好きした。昭和の時代は、町の至る所にテレビが捨ててあました。真空管式の白黒レビとか、古い洗濯機とかが落っこちてまて、それらを拾ってきては分解して、好き部品を付けてみたいなことらだんだん興味を持ち始めて、トランジスタとかを秋葉原に行ったときに買ってもらって、電気工作を始めたような感じでした。
  
-中本:ウチは直営店が1、2店舗しかなかったので、そこの力なかったですね。私が入社したでも2店舗しかなかったですどちらも後閉店しちゃましたので。+ゲームもすごく好きだったのですが、それ以上にテープレコーダーとかで録音をしたり、デッキをいじるとが大好きした。昔LLカセットという学習機材があて、親が勉強させるめに買ってくれたんですけど、当は多重録音と言ったです例えば最初のトラック笛を吹て、2番目トラックにはピアニカか何かの音を入れて重ねると、1人合奏ができてわー面白い、みたいな遊び方が中心でしたね
  
-Q:企画を実際に出して、もを作るときって例えば、シナリオとあるじゃなです? +Q:当時読んでた雑誌とかはありましたか?
-シナリオ、企画を提案した人が個人的に完成させていくのか、それともいわゆるチーム的、集合的な考え方でシナリオを完成していくのか、どちらなのでしょうか?+
  
-中本:結論から言いま、タイトルにってまちまちですね。例えば、『ヘラクレスの栄光II』では、最初は別企画の人間がやっていたんですが、「いまいちだね」という話なって、後から野島んが「面白くしてよ」と言わて手伝うようになっりとかそん形で作ることもありました。先程もお話した『探偵神宮寺三郎』とかもシナリオをこちらで分解はするんですけど元のシナリオの良さを生かして、ゲーム的に分解するよなコントロールを企画のほではしていました+中本:ず雑誌いうは、小学校からプレゼントされた、ぜなに学習漫画図鑑』みたいなセットがありまし言う科学のいろんな野が漫画化されてい書籍が、確か小学館だったと思うんですけど、本がありました。
  
-逆に『ダロード』とかは企画担当だった巌さが一所懸命作っしていました。ご存知のうに、野島さんはシナリオ制作の能力がすご面白いものが作れましたね。『ゴルフ倶楽部バーディーラッシュ』のロボットのようおばあちゃんきて、「わしロボットなよ、はは」というセリフとか、PCエンジンの「アツクテシヌゼーー!」みたいセリフ+その本の電気のコナーがとても好きで、ボボロになるまで読みましたね。当時、学校でも自分でモーターや電磁石、ブザーとかを作れる教材があったんですけど、それを漫画で得知識を利用して、巻く数を増やしたり、電圧を上げるとり磁力がなるとか自分でカスタマイズて遊んでいことが後々いろいろとつながいったのかなと思います
  
-Q:そPCエンゲームは、『ならず者戦闘部隊ブラディウフ』すね。+ほかに読んでいた雑誌ですが、まあありがちなんですけども『初歩オ』とか『ラジオ製作』ですね。小学校の頃は、泉弘志先生の電気工作ムクみたいなものがありまして、そういうので、なんかモース信号練習機みたいなやつか、夜になると点灯るランプとか、そういうところからスタートしまして。アナログの電気工作がすごく好きで、高校でも大学でもずっと続けていましたね。
  
-中本:そう。『ブラッディウルフ』とか、野島さんがシナリオを書いてたっていうが、そういう部分は、会社っていうより、野島色いろいろなタトル当時はたっていうことですね。だら、かなり属人的で、企業では絶対許されないですよね。「こいつしか作ない」とい感じになっていました。+あとは、中学生の頃にハマったのがアナログシンセサイザーした。『太陽に吠えろのサスペンスシーンとかで出てくる「ビャン、ビャン、ビャン、ビャン......」っていうあるんですけど、その音をどて出しているのかにすごく興味があったんです。中学の終わくらいにそれ「シンセサザーという楽器で出るらし」ということをどこかで知りまして当時秋葉原ラオックスに楽器館ってうのがあったのですが、そシンセサイザーが触るようになっていたので、よく通っていました
  
-Q:それと関係すると思うんですけど、例えばゲム作る時ムは、どのうに形成いるんですか?+最初は音をどうやって出すのかが全然わからず、誰も教えてくませんでしたが、だんだん「あ、こうすればあの音が出るのか」いうコツみたいなのをつかんで、中学から高校の頃に、まあその快感を知ってしまったんでね。高校に入った時に、まあ今考えと親が相当に無理をしたんだと思うんですけど、入学祝いにシンセサイザを1台だけ買ってもらいました。ローランド製シンセサイザなんですけ、それをずっといじり倒していたですが、ちょど秋葉原「ローランドシンセサイザースタジオ」というショールームがオープンたんです。そこに行くと、今までは独学だったんですけど、実際に使こなせ方がたくさいたの、そういう方に聞きながら、どんどん深みにハマっていきましたね。
  
-中本:例えばグラフィック、基本的にグラフィックチムでまとめている者がいて何人必要なかを考えて決めす。納期が長ければ少くするし、すぐ出さくちゃいけないと、持ち込み企画だったら全力なくちゃけなくなります。『メタルマックス』、もうほぼ総動員でやろうとか、プロジェクによっ当然プログラムのほう当然プログラマーをまとめる人がて、「とにく敏腕込もう」とか、「こは敏腕が1人新人2人きるよね」とか、その辺は各セクションのとりまとめの者がだいい決めますね+シンセサイザ頃はありメジャー楽器ではなかった、当時は中古の楽器が二束三文で売れてることにある時気が付いたんです。それで、もうとくアルバイをして、多少壊れていてもいら中古機材買い足していて。そでカセットテープを使ってピンポン録音って言うんすけど、最初の音を機材録音して次に違う音を重ねて別機材で録ってっていうようなこをやりまた。
  
-Q:つまり、仕事プロセスとしてはまず企画リオがあっういう感じにしよう」っていうのがからグラフィックならグラフィックチームを作て開発が始ということすね?+高校2年生時に、「シンサイザーテープコンテト」いうすごくマイーなコンテストがあったんですけどこに応募たら入賞しました。今は亡き、冨田勲さんという第一人者いたのですが、その方も審査委員におりて、当時ま高校生だったというもあたのかもしれせんが、私の作品を全国区のラジオで放送したいというお声掛けもしていただきましたの、もう喜んでお願いしました。
  
-中本:ができれば一番いんですけどいたいシナリが完成してい時期から走り出すので、程度規模かだけを決めますね+のテープは、私の母親の実家ある秋田をイメージして作ったものだったのすが、まあ今聴くとすごくショボですセミやカエルの鳴き声とか鐘の音とかが鳴って、やがて雨が降ってきて今度はヒグラシが鳴くみたなものを、5分程度にまとめテープを気に入ってただけたみたいですね。それで、ラジで紹介をしていただけるとうことで、時は田舎お婆ちゃん、「ラジオで流れよ」と教えてあげて。今ら思うと、あれが一番のお婆ちゃん孝行ったのかなあと(笑)
  
-Q:シナリオも並行ながら作ていたんですか? +で、そのコンテストに入賞たのは高校2年の時だったんですけど、1年生の時はなぜ選外だったんですけど私の名前だけはそこ挙がっていましたね。実、その時に作ったが、ほかでもないゲームセンターの音したドライブゲームで車が爆発する音だとか、「タラララーララ......」とかっていう、トランポリン系何かゲームが当時ありましたよね?
-中本:そうです。なのでってはシナリオ待ちの時間は別企画をしくちゃけないん。と数に対して人が少なかっで。+
  
-Q:つまり、部署とプロジェク両方に所属するような形におそらくなっていたんですね+Q:トランポリン系ゲームは多分、エキシディの『サーカス』のことですね
  
-中本:はい。そう形にりますね。+中本:ええ。その曲みたいな音とかは、元々は全部電子音でから、それをシンセサイザーで重て作ったみたいなことをやってましたね、YMOが作る1年以上前に(笑)
  
-Q:すると、部署に対る帰属意識はそんな強くはなかっということですか+Q:それはごいでね。後YMOが、『サーカス』と『スペースインベーダー』のサウンドを収録しレコードを出してますからね。
  
-中本:いいえ。作っている時は、企画は実質ディレクターつプロデュの役割をする必要あって、例えば音楽はどんな曲にしたいのか?」という話になると先程も言った酒井さんに企画が相談するような形でやっていまし。でも、どうしても大きなタイトルになると、部署よりもプロジェクトのほうのつながりの方が強くなっちゃうので、私が実は一番反省してるのは、『メタルマックス』んですね+中本:らゲム音楽のレコ出てきて、「1年勝った!」みたいな(笑)
  
-先程お話した、『メタルマックス2』以降は初期から投入された都合上、全員プログラムとグラフィックは社内スタッフした。企画組はすべて外部の人間でしたが社内で専有して仕事をする場所確保がなかなか難しい時期がありまして、近所の安いマションと言うのもほど遠い、ボロアパートみたいな所を拠点していました。何かあった時は、私がそこに行ってずっと話しなくちゃい、シナリオを作る管理をしなくちゃけないなどとやっているうちに、企画のまとめがかなり難しくなってしまった時期もありました+Q:そ時点で、もうゲームサウられていたのはすごですね
  
-の時には、ほかに企画をまめられるが、社内の人後に『探偵神宮寺三郎』シリーズをずっと続るこになる西山英一さんとかにそうう部分を受け持ってもらうような感じになってきました。なので、一旦は小さいプロジェクトで始またのが大きくなったのをまめてはいたんですけど逆になぜプロェクトに引き戻されるになったんです。それ以降は、プロジェクトを立ち上げたりとか、あるは何かあった時に、「これはどうる?」みたいなかとを考えて進める仕事が増えていきました。+中本:YMOよりも、1年早かったですねちゃん人のもいますの。まあこれは余談ですどね。と、いうような感じで、ぱり音ゲーム電子音とタルで表示される映像というものに、すごく当時しては未来感じました。
  
-Q:流れで、『メタルマック2』以降は、企画が外注ったいうことか?+Q:シンセサイザーコンテトみたいなものには、どういった作品が応募されてたのでしょか?やはりゲーム関連の音を、シンセサイザー作ったものを出していた人が多かったんでしょうか?
  
-中本:いいえ、企画はむしろ内製です。すでにこの時期から残念ながら新規シリーズが逆に立ち上げにくくなっていましね。そでは放題に、も製品化できですけど、そ頃になるファミコムが一段落しまして、新ハードが出るとその開発費がファミコンの比じゃなくらい掛かるよになったんです。+中本:いいえ。特に多くなかったので、むしろ、そういう音を使っていたところが注目さたみたいすね。多かったの、クラシックか普通のフォークソングとかの音の置換えに、シンセサイザーを使というパターンですので、どちらかいうとシセサイザーコンテストというよりは、むしろ楽曲コンテストだったんです。
  
-主にグラフィックを作る費用どうしても掛かっって、グラフィックを作るだけ容量半分以上使って、しかもそのほとんどが雑誌媒体とかでなさが実際に目に触れる所になるわけです。ムって実際にやってみないからじゃないです?ですから、グラフィックにどんどん力を掛けるようになって、人件費がかさんじゃんです+ですから、せっかくいろいろな音出せるんだら、「もといろいろな音を出たほうがいいよね」って、当時は生意気にも思っていましたの、高校1年生時はそういう電子音重ねて、ゲームセンターを再現んで逆に、2年生の時は自然の音をシンセサイザとかしてそれ音を作れないかなって思いなら、まあ当時としては一生懸命作ったりと、そいうようなことをしていました
  
-Q:先程もお話さてい外注というのは、主にプロセス外注なんか?+Q:当時の秋葉原では、多少壊れた状態シンセサイザーの値段は、だいたいのくらたのでしょうか?
  
-中本:プロセスの外注、繰り返しになりまが、プログラマーが圧倒的足りなく、その部分を外に借りるということが多かったですね。しかも、こと新ハードとるとハード解析段階らやらなちゃいけせんので、そのハードの経験がある方に頼んでやっていだいたほうが、コストパフォーマンスが良いということもありました。やはりどうしもKPIを無視できくなるとう形になりますで。ですから企画『メタルマックス』は外からの持ち込みしたがそれ以外は逆にで磨くいう形になていきました。+中本:値段ピンキリで。最初買っもらったものは、1音しか出せに確20万円近たが、中古です1万円程度のものもありました。それからアナログシーケンサーと言っ、8音しか音が出せないシーケンサーがあったのです売り値だいたい12万円だったんすけど、中古だ5,000円だたりしたんです
  
-Q:外注お話とは逆の形になりますが、データイーストゲームをナムコットブラドとしてファミコンソフトで出せるようになった経緯とか何かご存知ですか?+普通人にって、ただそれだけがあっても使い道とかは別にないんでよ。ただ電圧定期的な時間で繰り返し出てくるだけみたいなもなので。でも、それログシセサイザーいだ瞬間に、音程はともかく、いろいろな音色を自分の思ったとおりに出すとか、そういった使い道があったんです
  
-中本:以前から、単に社長同士の仲が良たとしか聞いていですね。現にその後にナムから人が来またし、セガらも人が来た時期っていうのはありました結構、ろな会社の方の出入りがあって、は出ていく一方で上のほうでは入たり出ったりっていうのが当時は割とよくありましたね。+それから、単音を無理やり和音せるめの一番簡単なテクニックは、エコーマシンを使うことなですね。ただ当時はテープエーとうしかありませんでした。ヘッドがくつか付たエンドレステープに同じ音を録音して、再生するポイントを少しずらすことでエコーにするみたいなもなんですけどね。今ならデジタルで簡単にできるよなことを機械を使ってやるしかなかった時代で値段も割と高かっんですね。
  
-Q:例えば『カルノフ』と『ドラゴンニンジャ』はナムコから発売されましたよね?ナムコットブランド出たこに対して、開発が「え、んで他社ブランドなの?」などと反発ようななかったのでしうか+値段が高かったしにももっと欲しいものがありました、何か安くできないかなと思っいたら学校友人が「近くにつぶれたバーがあるんだけど、そこに歌る仕組みが置いてあるから行ってみたら?」って言われたので行ってみたらテープエコーマシンがあったんですよ。「これいくらですか?」って聞いたら、「ーん......1,000円か」って言ったので、「おお安いな!」買い取りました(笑)。それが何を知っていれば宝になるけども、知らない人から見ればただのゴミっていうのが、昭和の時代はたくさんあったので、それを安く調達て遊んでいたんですね。ですから、知っている人から見ればすごい設備がそろってるよに見えるんですけど、実はなり安く集めていたんです。
  
-中本:いいえ。そ、出せるチャネルがあればそれらでも出したかったですね。ほかにも『サイドポケット』とかも出しましたよね+カセットデッキとかも、壊ているのはすごく安かったですね。だけど送りし用でしかもわざとモーターのスピードを変えて、回転速度を変えるとでキーをじったりとか、そうやって使うんだった別に何でもかったですね。そういう用途でテープレコーダーとかもたくさん、もうゴミみたいなものをいっぱい集めてました。
  
-Q:ビリヤードゲームですね。+Q:カセットデッキとかをいじるようなご趣味は、おひとりでやられていたんですか?
  
-中本:そうす。それも全部社内で作っていんですけど、1年間に出せる本数3本とかに制限されていましたので、それ以上出した、ナムコさんの力借りる感じでね。+中本:基本的には1人たが、何だ面白がって一緒行動しくれるような友人もいました。そ彼は、今も音楽スタジオとかをやってますけど僕はもうう世界とまったく縁がない仕事をしていますけどね。
  
-Q:『バーガ―タイム』とか『カルノフ』もテレビCMも当時ナムコが流していましたよね+で、そんなこんなで、大学に入った後は、やっぱり、ちょっ遠いところに、東海大学というところの通信工学科っていうところに入ったんです。今は東海大学前っていうんです昔は大根(おおね)、ダインって書く駅あっ、新宿からだとすご時間掛かるんですけど
  
-中本:それから、『ッグチムプロレリング』とかもそうすね。+###学生時代~デーースト入社まの経緯
  
-Q: +Q:大根小田急線よね。
-『タッグチームプロレスリング』も、元データイーストアーケードゲームしたよね。+
  
-中本:ナムコさんは特殊チップを持っておられたので、私は入社当時からファミコンがもう好き過ぎてしょうがなかったんですけど、ハードウェアをたまたまやっていましたので、バンク切り替えチップですとかを、他社さんがオリジナルで作られていたのがわかっていたんですね。任天堂さんのほうでも、途中からMMC1とかMMC3とかを作って共通化していったんですけれど、それまでは各メーカーが勝手に作っていた変な時代がありまして、その頃は他社さんのバンク切り替えチップの動作を個人的な趣味で調べていたんです。 
  
-ですが、「会社でもそれをやっていいよ」と言っていただけたので、会社でも解析をし、「このソフトチップ、ポート通た時は、バクはこういうふう切り替わるのか」とか、いろいろと調べたりいました。元々ROMカセットであったソフトをディスクシステム用ソフトにする時には、実は改造もせずできるソフトがくつかあることを突き止めたりとか、そんことを調べさせてもらえる時期がありました。+中本:そうです。最初の1年は頑張ってっていたすけどサークルに入っからちのほうがメインになっていました。には勉学のためと言っていながら、実際にサークル活動ため一人暮らしを許可していただて、大学の近所に下宿することなりました。
  
-例えば『カルノフ』は部分スクロールと言って、下切れていけど、ほう上下左右に動くようにっていました。他社さんも、バンダイの『ポケットザウルス』とかでは部分スクロールを使っていましたの「他社でできるんだから、うちでできいわけないじゃん頑張って!」ってログラマに言って、出来上がったら「やっとできました!」「おー、すごすごい!」とかって話をしましね。で、後で念ためチップ解析したら、部分スクロールがハード的にできがわかったです(笑)。つまり私はプログラマーにすご大ウソついてだましちゃったんで+その入ったサルというが、「東海大学放送制作芸術研究会」とい、「TUBC」というすごい大層な名前付いていたんですけど、実態割と仲良しクラブみたいものでした。そこっていたの放送劇の制作すね。当時は映像がそれほど主体くて複数のオーンリルテープレコーダーがあって、MCしゃべったところに効果音とかをリアルタイムかぶせていって、何か放送劇みいなものを聴かせイベントとか、あるいは完パケのものを作ったですとか8ミリとかを持ってる一部の人が映像作品ったるようなサークルでした
  
-Q:本当仕様っているに、こっそりせちゃったんですね。+そんなわけで、私もうほとんど音響屋さんと言いますか、効果音を作ったり生録をしていたんすね。生録もとても好きで、人間をたくさん集めた映像があたので、それをリクエストに応じ編集したりですとか、あるは元からあ楽曲を「とかく長くしてほしい」と言われた場合は当時はテープ編集の時は物理的にテープを切ってつなげるようなともやていたのですが、自分はすごく得意にしていましたので、まあ、んなことをやったしなが、ずとサークル活動に夢中になっていましたね。
  
-中本:でもちゃん実現できましたで、「あのプログラマーはすごい」「彼すごい能力持ち主だよ」って、お詫びに周りに触れ回ることで許してもらいました(笑)。まあそんな失敗とかがいろとりましね。すみませんまた話がしまいました......+そして下宿をする必ず陥るやはり、自分部屋が麻雀部屋になってしまうことなん(笑)。もう常に誰かがいる状態になってて、卓もメインで使う卓のほかに、小さなコタツがので、そこをサブ卓にし遊んでいました。
  
-====アーケードゲームの開発担当====+Q:2卓あったんですか?それはすごいですね。
  
-Q:中本さんはアーケードゲーム『強行突破』と『ダーウィン4078』開発担当されたそが、そもアーケードゲームの開発担当するようにったのはなですか+中本:卓を2つ作って6畳部屋に8人、さらに順番待ち人間が4人いて、全部で12人りして。確か、卓を真っ直ぐ置けなかったので、斜めに置いてましたね。、ほかの誰かにチャチャ入れてしる人いたりするような感じでさらに待っている人つぶせるようにとLCD、液晶のゲームも好きだったので、それも置いてありましたから、みんなで「これ面白いな」とか言って遊んでましたね。なかに奇特友達もいて、自分の持っているLCDゲームをうちに提供してくれたりして、まあよくありがちですけど、どんどん物が増えていったんですね。「こうしてゲームもたくさん集まると、何だ面白いなあ」と。
  
-中本:多分ですが、後で聞いは大学の工学部卒の人はほぼ選択肢がなくド部門配属になった思います。。その理由ははり当時文化でもあったコピー基板問題。コピーさてしまうと、莫大開発費掛けのがという間に自分の所に1円も入らず広ってしまうっていうのを何度も経験しまして。まあ業界全体がうだっすけど。+ファミコンとかはまだなかっ時代したがやっ待ち時間はLCDゲムで遊んで、自分になったら麻雀をして、そこで「昇級」すると、今度りの卓に移るみたい遊び方してまし(笑)。多分、ほか皆さんも経験があるんじゃないかないますけど、まあそんな感じでし。モノ作りもしてはいたんですけど、やっぱりそうやって人と遊ぶのがメチャクチャ楽しかったですね
  
-コピープロテクトチップの設計とかCADを使えてチップを制作してもらえる会社さんデザインスタジオに、もうほとんど泊まりこみに近い状態で、ずっと通い詰めになってCADで設計したりするような、そういう知識とか忍耐力が必要だということから、工学系男子は強制的ハードウェアをやるみたいな文化があったようです。私とかも、なぜかそれに組み込まれちゃったので、きなりはんだ付けかスタートていう感じでた。『ダーウィン4078』の元になったのは、実は『強行突破』の基板で、『強行突破』の基板と『ダーウィン』の基板は、同じなんです+Q:大学時代就職に関してはどのように考えていらっしったんですか?
  
-:つまり『強行突破』基板に『ダウィン4078』ROMを差し替えるだけゲ動くんですね。+中本就職にいても何となくですが重たい仕事、堅い仕事は無理だなと思っていました。当時通信工学科は、割とプログラマーのスになるような話多かったんです。通信ではあるのですが、どちらかと言えばデジタル技術のプロトコルとか、言語がどうだとか言っていて、まだ当時はFORTRANとかCOBOLとか、今では全然聞かないような言語とか、BASICなんかもありましたね。
  
-中本:ROM交換プロテクトチップの変更だけで動くんです。その元設計を先輩が行ったものを調整して出したんですけれどものミスでその基板のロケテスト中には基板上にうまくいかないところをパターンカットして線を飛ばす、ジャンパー100本飛ぶ100本ジャンパー基板なっちゃったんですね。+個人的にはやっぱり、人を楽しませる仕事がしたいなあですから例えば玩具会社でデジタル技術を応用しものとか、あるいはズバリ、ビデオゲームとか、そういうものを作りたいなと就職課に相談をたら、任天堂を紹介されたんです。今思うと人生で最大選択ミスだと思うんすけど(笑)「任天堂ってどこ会社?京都なんて行けなよ......」みたいな感じで、どこ都内にある会社はないものかって調べていたら、ちょうどデーの社長が東海大、かも同じ学科の卒業生だったことがわかったんで。最初はもちろん社長とは面識も接点も全然ありませんでした、「じゃあ、会社見学でしてみようかな」みたいな軽いノリで行きました。で見学たら、なぜか帰る時には内定が出ていたんですよ。当時は、本当に緩い時代だったんだなあって思いますけどね。
  
-そのジャ移動中に切れてしまわなに樹脂で固めた、もうROM交換は不可能な状態になってしまいまし。後工場から「もあれはひかったね」「お前がその責任者?」って苦情を言われるよな、ちょっとした思い違いでそんな基板を作る羽目になってしいました。「もう千葉工場さんごめんなさ」と(笑)。 +ちょっと話が前後しますが、ゲームセということで言いますと昔は練馬からだと「としまえん」のほかに遊びに行く所というの、もう池袋くらいしかったすよ。高校時代に池袋にサンシャインシティがちょうど出来まして、その地下に確ゴリラって名前だと思いますが、ゴリラ表情が動く大きオブジェが置てある、巨大ゲームセンターがあです。今は多分トイザらスに変ってると思ますけど、そこすごく大きなゲームセンターがったんです
-そんことがありましので、その2つは思い出深いです。ジャンパーが途中で切れてかんなから直せ。お前しか直せないんだから、悪いけど来てくれる?」って日曜日の深夜プログラマから自宅に電話掛かてきこともありましたね+
  
-Q:中本さんが開発関わられたアーケゲームマジカルドロプ』を作り始めるまでの間はこれらの2タイトルだけです+高校は東京電機大高校でしたので、学校帰り後楽園駅か池袋まで地下鉄に乗ってから友人と遊んで、そぞれ散り散りに帰っていくという感じで、その遊びのコスの中にサンシャインシティ、ゲームセンターですとか楽器好きだったのでヤハのライトミュージックのセクションであとか、そういう所を歩き回っていした。元々『スペースインベーダー』が好きしたで、「『スペースンベーダーパーII』っていうのが出たらしいぞ」という話を聞いて、それを見に行ったりとしていましたね。
  
-中本:はい。『マジカルドロップ』のアド版私がやっのはどちらかと言えばルール調整のほうで、この時はハードウェアは一切触ていないすね実はカルドロップ』のコュー版は、一旦開発を止めた時期がありました。『マジカルドロップは、自分でやらない進まないパズルで例えばテトリス』はずっと受け身で進んでいが、れを受け身にしてくのは、かなり難しいよね」ということで、コンシュマー版は業務用と並行して開発するのは一旦止めて、やがて別のタイトほうの優先度が上がってしまいましたので、実質的に立ち消えになってしまったんです。 +大学に入ってからもゲムセンターで遊びましあるいは喫茶店にもテ筐体が当たり前置いてあた時代した。『ジューー』と、『ゼビウス』なども結構遊んでいましたし、じゃあゲームセンターの仕事できるんだったら、ここでいいんじゃないかなということで、ータイース入社決めました。
-逆に、業務用のほうの開発はすごく頑張ってゲーム仕上げる流れになりまして、それができのを受けて、コンシューマーにも移植をしましょうと。それだと確かにお金もかからないし、版権も一緒だからということで+
  
-Q:ハードネオジオでかたら家庭用にもアド版ソースをそまま持っますね。+Q:もうひとつ、話前後て申し訳ないのですが中本さんがゲムミュジック作曲ができるほど音楽の素養を身に付けおらたのは、やはり学生時代のシンセいじりがきっかけだったのでょうか?
  
-中本:そうです。そのおりです。コンシュ版の『マジカルドロップ』は、サタン版プレス版を出す時私が担当になりました。そこうしりたったのがーンとプレテ版を出にあって、初代『マジカルドロップ』と『2』ゲーム性もキャも違けど一緒に出すことでた。+中本:そうです曲を作るということでお話をしまと、私の場合は中学の時にフォクギタを始めたんですね。最初誰でも実際にレコレビとか合わせて演奏したいなって考えると思うんすけ、知っるコードだけでは当然キーが合わないんですね。難しいコードは初めのうちは押さえられないので、いわゆるC系G系とに限られちゃうんですけどカポタストというキー変更できる器具と初めて会った時、「あ、音楽っていろんな調があるけどこれをズしていったら基本は1種類しかないんだ」っていうことに、まあ当たり前の話なんすけど気が付いんですね
  
-『マジルドロップ』のキャラクターデザイナーと、『マジカルドロップ2』『3』キャラクタデザイナーは別の人で2人が作った『マジカルドロップ』を同じもとしては扱てくれなくて、一緒に商品化するのがとても難しかったです最初の『マジカルドロップ』のプログラマ、グラフィックデザイナーのつかぽんさんという女性の方はもう退社しましたので確か『2』と『3』のキャラデザインは竹内さでした。そでも、私は絶対に一緒に出したかたので、2人を何とか説得しタイトルとし出す許可をもらいました。すごく辛かったんですけど、実現した時は小躍りするくいうれしかっですね+「と、いうことは、ポタスト位置を変えれば、どんな曲でもキーを合わせて弾けるハズだ」と、気付いてからいろんな曲を弾いているうちに、「ある程度ド進行流れ構成って、ほぼ一緒じゃん。パタン化れてるだな」ということがだんだんわかっまし「なだ、これって簡単ゃん。自分できる」っ思っちゃったんですね。まだ生意気なガキでした(笑)
  
-Q:『マジカルドロップ』がシリーズ化したとうこ第1作目の評判かっら続編そうとことになったわけです+それで、「曲なんて、自分でくらでも作れるじゃん」思っちゃいまして友達書いた詩とに曲を勝手にく付けて、弾いて聞せると「おお、いいね!」みたいに喜んでったりして。そうする自分でもうれしくて、どんどん曲を作るようになったですね
  
-中本そうですね。2作目はポップキャラになりましたが1キャラとはもう真逆で、1作目のキャラはアバンギャルドと言います、何かシュールな感じなんですね。「それがいい」と言うファンももちろんいたのですが、『2』以降のアニメキャラに近いデザインのほうが一般受けはすごくよかったので、一番最初のデザイナーは当然面白くなくて、「もうやめた」みたいな流れになっちゃったんです+:なるほどコード進行からコツをつかんだわけですね。
  
-から最初のは、タロットカードノベルティグッズを作っり、どちらのキャラも使えるようにったので、その後はトランプを作ったりもしました。その頃はそういう売り方工夫できので面白かったですけどね。データイースト末期の、最後の花火のひとつかなという感じでしたね+中本:「音楽って難しうで、実は簡単じゃん」みたいな、もうナメまくったところから曲作りを始めたんです。高校は、自分でシンセの作品もちょと作ましたがそれりは音作りのほを中心ていましね。大学てから、曲作りをまやるようにはなりましたまさか入社後曲作りをするなんてまっく思わなかったです。
  
-Q:データイーストでは、専用筐体を使用したアーケードゲームも出していましたが、生産あるいは量産する際は荻窪近辺にあるどこかの工場を利用していたのでしょうか? 
  
-中本いいえ設計は内で生産は千葉工場でやっていました。筐体担当課長と課員の2人しかいなかったのですが2人とも仕事をマていまし。筐体もいろいろありまたね、例えばレーザーディスクゲームの筐体と+後にデータイーストへ同期で入することになる同じく東海大出身吉田博昭さんとは、在学中に音楽サークルで一緒に活動どをされていたのでょう
  
-エレメカとかい系の筐体ものもしていましたね。+中本いいえます。彼は本格的な、軽音だったかジャズ研だったか忘れちゃいましたが、ちゃんとした音楽系のサークルに入っていましたね。私は逆に、大学に入る頃には自分程度の人間と、音楽の最先端にいる人とのレベルの差はうわかっていましたで、もし自分がやるなら音楽じゃなくて音作り、サウンドクリエイターのほうだと思っていました。もっとも、まだ当時はそんな仕事はなかったんですけど、イベントの効果音だけ作るとか、「そういう仕事ができるかなもな」ぐらいには思っていました。彼は本格派ですが、私は邪道です(笑)
  
-中本:はい。そういうジャンルを2人生み出ていましたね。+吉田さんギターがお得意でしたから、後にデータイーストのゲームミュージックバンド、「ゲーマデリック」のメンバーにもなりましたね。
  
-:それから、『リクラ』ブ頃には『スタプ倶楽部』も出ししたよ+中本:そうですね。本当にロだし、今でも演奏をしていますよね。私もバンドをやっていたことがありましたが、ほとんどシンセサイザを「飛び道具」として使う専門、ほかのバドじゃ出ない音をその場で出して、「おお、すげー!」って思わせる、ただそれだけのためにいるような役でした。YMOの松武秀樹さんのうに、あぜあの人いるのかわかんないんだけど、実はすごい音を出してるみたいな
  
-中本:そうですね。『スタンプ倶楽部』懐しいですね。これ考えたのはグラフィックの女の子なんすけど「すごかったから」ということ受賞してました「顔写真がスタったら楽しいみたいなことから実現した女の子らでは企画でした。あの時は社内での女性の地位がすごく上がっていきましたね。+ですから、高校からキーボード始めるようなありさまだったので、演出技術とかも全然なかったですね。しも、真面目に努力するのが苦手なタイプしたし、いつも楽をしてできないかなあと考えてばかりいました。大学時代にやっていたバドでも、すごく真剣そうてはいるんだけど、実はシーケンサーをだ使っただけで、でもそれでもいいや、何かカッコイイ、それだけでもまあけるみたいな(笑)。なので、事情を知っている人から見ればもうプッて笑われるようレベルでしたから彼とは全然次元違うっていうことぐらいはさすがにわまえていましたね。
  
-Q:人の出入りがあったというお話がありましたが、データイーストはそういう会社だったんですか?新卒がって、データイーストで腕を磨く会か、あるいは上も下も中途で出入りがあるのか、どちらでしたか?+###データイースト入社当時社内環境・業務内容
  
-中本どちらかと言えばはずっ採ってはるんすけども育つと旅立ってような学校的な感じしたね。+先程もお話がありましたがデータイーストの福田社長も東海大卒ということで、社内にはある種の東海大学閥みたなものがあったようでね。
  
-先程も人材輩出会社だってっていましたね。+中本そうですね。確かにそれはあったかもしれないですね。私は大学時代のゼミで文字認識の研究をやっていまして、その文字認識のスポンサー企業として、当時は意識していなかたんですけど、後でデータイーストと共同研究をしていたことに気が付きました。そこには女性の方と怖そうな男の人がいたのですが、後に自分の同僚や上司になるとは思いもよらなかったですね。世の中は狭いと言いますか、わざわざ自分が狭い所に行ったのかはわかりませんが、おっしゃるとおりでそういうものが確かにありましたね。
  
-中本ええ。ちょっと良くないことなんですけど、育てた人間のなかで恩義を感じて残った人間は、私を含めて割と少なかったですね。私も、最後は逃げるような形で辞めてまっんです。途中から入ってくる人も実はいたんですけどは教育をしうえで入ってきたという形でした。それはどういうことかと言いますと、サテライト構想というを当時の会社でやっていまして、札幌サテライトとか福岡サテライトとか、データイーストの支部を作ったんですね。+1983年ファミリーコンピュータが発売されましたが、就職されたのはファミコンが出後にあるんですか?
  
-そこに新人もました、やる気のある中途が集まって、「ゲーム業界にってみたい」っていう人を育てて、もしいい人がいたら、すぐに地方で働けるならそこで使って、そこでは無理だったら東京に来てもらって、「宅を貸すから、ここで作ってね」という形でやっていました。そうちの1人が野島さんですね。データイースト卒の中では、彼が一番儲けていると思いますが、彼は札幌サテライトの出身で、上京して「東京って怖い所だね......」みたいなことを言ってましたね(笑)+中本:はい。私が入社したのは85年です。
  
-Q:そのサテライトは、いつ頃に作られたのでか?+Q:ファミリーコンピュータを初めて見た時は、何かショックを受けたりとかしたのでしょうか?
  
-中本:何年だったか......ょうど、コンシューマーとアーケード部隊を補強しようかっていうですどちらかと言えばコンシューが中心で、営業所だった開発養成するような仕組みを作ろうっいう取り組だっ思いね。福岡サテライトらは優秀プログラマーがたくさ出てきましたので、そうか、考えるのが得意なのは北海道、体を動かすのが得意なのは福岡なんと。まあプログラマーも頭使うんですど(笑)+中本:はい。順番がすごく前後しゃいますけど、それまで家庭用ゲーム機はエポック社が出ような、ただピッとし音が鳴らなな、すごくシンプルなものという認識しかなかったんです。それが、デタイストに就職決まった、今のカミさんがお祝いにファミコンプレゼントしくれて、最初は「まあ家庭用でしょ?」みたいにってたのでが、あの土管しかなかった頃の最初の『リオブラザズ』を遊だら、目からうろこが落ちました「えっ、何で家庭用でこんなことができるの?これ1万円ちょっとしょ?業務用だと50万円くらいに、何これ!ってすごい衝撃ましたね。
  
-Q:当時から、九州ではト産業盛んでしたしね。+最初のソフトと本体はカミさんが買ってくれたんですけど、その後はもう食い入るように、会社に入ってからもファミコンには没頭しましたね。逆にファミコンと同じようなことはほかもやっていたのに、なんでファミコンに追い付けないんだろうとも思いましたね。同じくらいの値段、なぜこんなにも動きが違うのかなって。描画の機能が全然違う、ほかと考え方がそもそも違うっていうことに気付けば、まあ簡単なことではあるのですが、金額に対するパォーマンスとか、何任天堂のほうがこんなに優れてるんだろうって思いました。就職する時に、何で任天堂を受けなかったんだろうという後悔がそこから始まったのですが(笑)、「その場にいたら、何かそこで楽まなくちゃ派」でしたので、まあ別に問題はなかったですけどね。
  
-中本:それあるかもしれないでね。すん、もう気分ちゃって......+データイーストに入った頃は、私の担当は業務用のハードウェアだったんですね。ゲームを作りたいけど、具体的に何をやりたいの、特に表明した覚えがなかったので、う自動的にハードウェアの担当になりまた。そが明らかになるのは、卒業してから入社するまでの間に、「アルバイトに来ないか?」っていう連絡が来た時したね。これ、今考えるとひどいでよね、就職先から「アルバイトに来い」って言われたら、断れるハズがないですよね?それで、アルバイトに行くことになりして、作業着を着てハンダ付けをしたりとか、難しい顔をして全然わからない図面とかを見てる人がいたりとか、まあハードウェアだから設計とか試作をしている部署だから当然なですけどそこでとにかくハンダ付けをたくさんやれみたいな感じでし
  
-Q:について先程から何度仰っているようにタイーストでは企画はあってもそれ実行する人が足りない状況があったの、中本さんがそう仕組みを整えていたっていう理解宜しですか?+今はブレッドボードにピンを挿すだけで試作品が作れますけど、当時はユニバール基板にッピングポスうピンをいちいち立てて、素子1個ずつから引き出したのをラッパと言って針金ハンダ付けしないでクルクル巻てつないでいく仕組みのブレッドボード作っていたんです。そこで、その基礎となるハンダ付けを、「ハードウェアをやるにあたって、まずはきなくちゃけない」みたいなことを言われましたね。
  
-中本:いえ、当時の上司ですね、進言したことありますせっかネタあるのに、開発体制がなら作ないという残念な思いはうしくない。だったとにく層を厚くしようと。東京だけ固執していたろで、東京だ逆にいい人はもっと売れるゲームメーカーに行く道とかがいくらでもありましたので+電気工作は小学校からずっとやってしたから、実難なくそれをこなしてしったんです。おそら、そこで先輩何か指導するハズだったんでしょうね。でも特に指導することがなかったので、「じゃあ、これも作って」って言われりして、自分の仕事が増えちゃったんです「工場かよ!」みたいな感じで(笑)。まあ後々、大しっぺ返しを食らとになるんですが、そうたこともってドウェア担当りました。
  
-Q:86~87年く競合するカーもていましたしね+ただ、私はどちかと言えばアナログの電子工作を中心やっていたので、こちらはあ程度の心得はありましたが仕事のほうは完全にデジタルだったんで。アナログで出てくのは、ノイズ防止のバスコンデンサとか、あとはオディオ回路くらしかありませんでした。音を出す部分はアナログ部品が必要なのですが、それ以外はもう完全にびっしり、あのゲジゲジがずらっと並んでるんですね。しかも、それが当時はLSシリーズ言う、テキサスインスツルメンツ社の規定したロジックICを組み合わせ、すべてのゲームを作っていました。さらにコピー防止のために、その一部を各社が独自のカスタムチップを開発するという時代だったと思います
  
-中本:はい。だったら、元から土地勘のある営業駐在している営業所、その土地らではの人とか、またはその土地から遠くには行けないけど、やる気のあるてようゃないというようサテライトコースでした。、仙台にもサテライトがありましたね。正社員化するため面接に私も出張しっていました。+設計ができようにめに、デジタルICにはどういう機能があってどんな種類があるのか何十種類、何百種類も暗記し、ソラで出てくるようにしなくちいけないんです。もう頭の中が、ずっ「0101......」みたいな感じになってましたそんなところらスターして、ハードウェアの先輩設計したものを実験して、設計どおりに動かない部分をちゃんと動くように調整することが入社後OJTで、まずはずっとそこで教わりながら、基板を作っいくっていうような部署に配属されました。
  
-Q:会社最盛期には、社員は何人くらいいたか?+Q:当時アーケード基板は、カセットテープを使用した、わゆるデコカセシステムを改造しようなものだったのしょうか?
  
-中本:100人そこそこだったと思ます特にグラフィックは、アルバイト方がとても多くて、プログラマーはアルバイよりもプロパーの方多かったですね企画はデバック担当でアルバイトだっ人間企画も、やっぱりゲームをたさんやているので、「面白いゲームのネタを考えてよ」って言ってプロパー、社員化し例もあります。すみません、こ辺の事情は、私はあまり詳しく知らない+中本:いいえ当時は、もうそのトレンドほぼ終わていました。むしろデコカセをROM基板化しほうこれから売れるだろうという時代でた。デコカセだと、やっぱりメンテナンスがすご大変だったりますので。
  
 +Q:デコカセ基板は、カセットテープを使ってデータを読み書きする仕組みでしたよね。
  
-====ファミコン名人ブム期業務内容====+中本:そうなんですよ。しかもマイクロカセットだったので、発想自体はかなり先を行っていたとは思いますが、耐久性に問題があったんです。そこはやっぱりデータイストらしく、どこかがちょっと残念で、まあそ残念具合が好きだったんですけどね(笑)。
  
-Q:いわゆるファミコン名人ブームの時期ありましたよね? +Q:85年の入社ですからその頃のアーケードゲームですと、吉田さんBGMを作曲した、『魔境戦士』とか基板設計を中本さんが担当しのでしょうか?
-当時ブームはどういうもだっか、改めてお聞かせ願えますか?+
  
-中本:ファミコンが出てから任天堂名前はみんな知ってるんですハドソンやナコさん名前も、早期したは知られていまし、ゲームセンターに行く人だったら、ハドソンはわからなくもナムコはわかるしパソコ用ソフトを遊んだり、PCで自作プログラムを作る人はハソンを絶対っているという、そういう知名度があったと思です。+中本:それはもうちょっと後時代です彼は当時、全然ゲーとは別セクションに入っていて、確かFAXとかを扱う新規事業部というに配属されていたと思います。後にゲーム主体で行くぞ」って会社がなった時に統合されて、彼がサウンドのほうやってきたっていう感じです
  
-ところがデータイーストとかそれから、詳しくはわかりませんがジャレやアイレムさんとかも、業務ではそこそこの中堅だっんですけど、「世中の人は知らないよね。ゲーセン行った人でもの名前までは知らないよね」っていうなかで、「自社のソフを売るにやっぱり、会社ソフトを売る顔となる人がいるよね」っていうような流れでした。一番最初に始めたのは、何と言てもハドソンの高橋名人で、それからバンダイの橋本名人、このおふりが双璧でした。高橋さんはプロパーの社員いうことで、どちらかというと他のメーカーの方というよりは、ウチを含めて社員中心が多いなかで、橋本さんはバンダイの社員になる前は、確かアニメの仕事をさしたよね+Q:1985年当時のファミとかの家庭ゲームがいろいろと出てき日本のゲーム産業おいて、タイトはのような立ち位置だったと思われますか
  
-Q:橋名人は、学生時代にアニメ雑誌のアニメージュ』の編集部でアルバイトをしていたそうすね。+:当時は、まさに転換期だったのかなと思います。と、申しますのは、まずひとつ目はデコカセットシステムが終わりを告げて衰退期に入り、おそらく基板は他社のほうが進んでいたと思います。当時はまだ6809とかをCPUに使っていた時代に、ナムコさんではもうリブルラブルに68000を使っていましたし、セガさんでも使っていましたよね。ウチが68000を使うのは、そこからだいぶ遅れていましたので、ハードウェで基板売るのは多分後追いになってまいました。デコカセシステムが、ある程度の幅を利かせていた時は良かったんですけど、の次の手を打つのが若干遅れたのかなってい印象はありますね。
  
-中本:その仕事をされていた方が後にバダイに移って名人というったので、スタトとしては高橋名人が最初なのいます。高橋名人の遠く足元にも及ばない我々しては週に1回のファミリーコンピュタ関係の番組だた『ファミっ子大作戦』『ファミっ子大集合』と名前が変わっいったんですけれども、それにウチとしてもスポンサーことになりました。番組はアルファ企画という所制作、メからのルトでも出られるっていう座組みあって他社さんも多分同じような感じでやっていました。+逆に「ファミコは面白いらしい」ということはキャッチアップしていたらしくて、私が入社した時いくつかあったプロジェクト中のひとつで、ファミコンのデバッガ基板を作っいました。それかといますと、ファミコンの実際の基板がブレッドボドに取り付けてあCPU部分を6502て、その6502のICE呼ばれる、CPUの代わりをながらプログラムの調整とかでき装置がありました。おそらく、どこ会社もインサキットエミュレ、つまりICEを使て開発していたと思いますが、それのファミコン用を開発していました。
  
-シーケンスとしては、我々はメーカー人間でしたので、収録の時間そんなにれなんですなので、1回収録、翌月分もすていまし。でもソフトは生ものみいなものなので、その段階では発売でき状態にいものも発売予定にはっていたりしました。そういう場合は見えない所みんなROM基板むき出の機材を使ったりして(笑)。それで子供たちに、「こゲームは、んなふう遊ぶんだよ」とか、そういうこと台本には書かずに、全部一発で本番みたいな感じ撮っていましたね。+ただ問題があったのは、6502がそまま載っているわけではなくて、ファミコンのCPU自体、こは有名な話なんですけども音源も載っていて、その部分のエミュレートはできので、音をエミュレートするためはまた別システムが必要した。ウチのサウンドドライバーが他社よりもすごく遅れしまったのはこれが理由だっんですね。で、その6502のエミュレーターからファミコンのソフトを作ようデバッグ機は私がアルバイトを始めた頃にはもう出来上がっていて、開発がスタートていました。その後実際に「ファミコン用ソフトを出すぞ」って聞くまでの間、しばらく時間ありまた。多分、研究期間があったんだと思います。その当時は、私はそんな動きには全然気付かず、後して思えばああそうだっなとうお話ね。
  
-そういうことっている、「テレビで見たやつだ」とか、「これ知っメーカー好き」かいう徐々に形成ったんですね。逆に、今では個人情報保護法やらやらろいろと難しいのもしれませんがまだ当時おおらかな時代だったのでビデオにわざわざ撮る人もなかったいいじゃないそこで何起こても放送前撮り直しが、宣伝媒体してはやっぱり大きいよね+個人的には、会社では業務用っているけども、「心はファミコンみたいな感じで、自分はもっぱらファミコン用ソフトですとか、ファミコン以外の家庭用ゲーム機に没頭しいました当時はファミコン、それ以外ものとの差を、さかのぼっ調べるのが大好きだったんですね。何でこっちは動くんだう、こっちはうまくったんだとか、「コントローラーは、ちだと使やすいの、あっちほうはぜこの形にしたんだろう?」か、ういうとを調べるの個人的に大好きだたので、給料はほとんどファミコン関係つぎ込んました。今思う、本当にバカみたですよね(笑)
  
-ごくまれですけどムショウとかの場実演をしてあげたりですとか、軽いファンサービス程度のことしてあげるっていう、メーカにはよってはそうやりていした。とYouTubeとかで簡単にできる時代になりまたが実際に制作者が出て行って話をした方が早いでし、今では実際にそっちっていますけど、当時は代表顔が必要だったんです+そんな時期に、「デタイーストファミコ用ソフトぜ」っていう話になった時は小躍りするほど喜びました。しかも、自分はハドウェア担当だから全然関係ないですけど、「ウチの会社でも作るうになたんだからまあいいや。その代わ、変なのは出すなよ」とは思っていたんですけど、最初から変なものばっかり出始めんですよ「えーっ!これを出すんったら、音とかをもうちょっとこういうふうするべきできょう」とかまだ入社したばかりで怖ものなしでしたから文句を言いまくりで、先輩から「こっちへ来い!」って言われるような人前でも発言しちゃったらしくて
  
-もうひつの背景は、メーカー側が開発者の引き抜きを恐れていまし。例えばセガさんでは、いろいろな筐体のゲームとかをテレビで特集る時に制作者も一緒に説明ために出るんでけど全員がサングラス掛けいるです。覆面状態で、名前も出しちゃいていう時期がありました。ウチの会社でも、一時期そういうことが実際にありまして、途中からはやめたんですけど名前は必ずそ人に準じた仮名、いわゆるルネーム的なものを作って、ディングには仮名てもいけど実名は出さいようしようと。あるいは、エンディング自体を出さいようにしようということで最初はやっていました+あ、最終的には同じ船に乗るこになる先輩だったんですけどね。「お前新入りくせ口を出すんじゃねえ!」とか「余計なこと言ってんねえよ!」みたいな感じだったんですけど、まあバカだったウェアを作っている脇から気にせずに言ってたら「じゃあ、そんなに好きならお前がファミコンを!」みたいなになました。
  
-、「引き抜きがなくも出て行く人行きましたし、ずっとる人はるんだから、それじゃあ意味がないよね」ということで、途中から「このソトは、私責任って作りました」ということで実名すようになったんです。他社さんも同流れだったでしょうね。+それで、「一番の問題は何だ?」っ聞かれたので、「い、音です!うちの音はひど過ぎます!」っ、サウンドチームがいるのに言っていした。当時はもうFM音源がアーケード用の基板に載るのは当たり前でしたし、FM音源を使えばろな音が出せますから、作り手としても面白わけですよね、ファミコン音は研究もしないくせ、「ー、あれって1音しか出ないからつんないよ......」みたいな感じでしたね。でも、「違うよ、1種類じゃないから!」というのをわかってもらうためにファミリーベーシック会社に買ってもいいでかって聞いたら、「安いからいいて言われたので、それを使っていろいろな音色がファミコンでも出せることを実証したんです。それまは、いろんな音が出せる信てもらえなかった、まずはそんなところから切り崩ていったんですね。
  
-Q:データイーストで、昔からアーケード版で『ダークシール』などディング画面に漢字でフルネームスタフロルが出くるタイトルありましたよね?昔みんアルファベットイニシャルとか、仮名をちょとだけ出すのがたり前でした『ダークシーサウンド担当の吉田さんも、フルネームで吉田博昭と出てしたが。+当時先程お話したようにサウド用デバいうのなかなか難かっんです。ICEのほかにもCPUのサウンド部分を動かすうなものも作らなくていけかったりするの、すごく装置が不安定なんですね。装置は3号機だったか、4号機くらいまであたんでけど、それぞれ機械ごとに音違ったり、安定性も違っていましたので音作りをする人間が自分のお気に入りの機械を奪い合うようにして使っていましたね。デジタなのに、何そんなアナログみたいな状態になるんだろうなあと。サウンド担当が機械を奪合うような悲い状況になっのは、実はこういう理由あったからなんです
  
-中本:そこはまあ、元々目立ちたがり屋な人がゲームってることが多かったですで。+###ファミコン用ソフトの開発部署に異動BGMの曲や音質向上にも貢献
  
-Q:だいたい何年くらから名前を出すようになったんですか?+Q:ファミコン用ソフトの開発をする部署に移られたのは、だいたいいつ頃ですか?
  
-中本:ファミコンだと、『ドナルドランド辺りの時代から、版権元とか実名で出さなくくなりましたので、そうなると「自分ただけが、実名を出さないわけにはいかないね」なった辺りかですね。もう引き抜きかがあってもいでしょうと+中本:ちょうど、『バギーポッパー』を開発していた頃なので、その発売のょっ前くいだます
  
-Q:80年代の終わりくいから、名前を出すようなったということですね。+Q:こちの手元の資料よれば、『バギーポッパー』の発売日が86年10月8日ですね。
  
-中本:ええ。セガさんとかで鈴木裕さんみたいな方がもう実名でガガン出てきていましから+中本:そうします、入ってら1年ちょっとで、もうファミコの開発のほうに異動していたということでしょうね
  
-Q:90年代に入ったくらいから、スタークリエーターのブーム始まりましたよね+Q:それから、ータストファミコン参入第1弾となった『B-ウイング』は、発売日86年の6月3日でした。
  
-中本:その辺りからでしょうね。それまでは、引き抜きがあるぱり何よりも困る。けど宣伝はしたいっていう苦肉の策でした。+中本:そうですね。私が口出しを始めたのが、さに『B-ウイング』した。その前に『バーガータイム』ですとかナムコさん側のOEM枠を比較的有利に使わせていただいていまして、当時のデータイーストはナムコさん仲が良かたので、「ナムコット」ブランドでデータイーストのタイトルをいくつか出させていたいてました。その頃、私が全然知らない間に製品ができていましたので、それに対してろいろ文句を言っていたら、今度は自分がやらされるよになったという流れでした
  
-Q:90年代はテレビのプロモーション、広告を打つこと重要になりましけど、80年代頃は雑誌すとメディアの使い方は、そ以外はういうものがありまか?+Q:自社製ファミコソフトの音のどの辺り入らかったのでしょう?例えば『B-ウイング』であば、具体的に音のんな部分をっとよくできると思ったょうか?
  
-中本:メディアですと、ウチがたまたまやっていたことで言えば、例えば私がコレクターでもあったと言いますか、ファミコンが大好きだったでファミコンかほかのゲームも集めてて、アーケードゲーム好きで遊んでいたです、基板は高から買えないと思っいたら、ある時期になってファミコンかコンシューマー部署ってからケード欲しくなりましてで、ゲーム雑誌見た中古基板の広告載っていたんです+中本:ファミコンの音色には、矩形波といものが2個使われていて、あとはノイズが1個あって、矩形波ノイズ出し方っていろいろな音を出すことができるんです。具体的にはデュティ比と言う矩形波の比率りまして、例えば比率が50%対50%だと普通のポーッという音が鳴るんすけどもその立ち上げ方や揺らし方次第で、木管楽器風の音すことできるんです
  
-Q:昔ム雑誌基板屋さんがよく広告出しいましたよ+デュティ比を狭めると、パルス波という形なるんですがそうするとポーッという音が、ジーッていう感じの音になって、シンセサイザーで言うところのパルス波が一番ドンピシャなですけど、ノコギリ波という割と弦楽器とかに近い音色に近付けたりすることできるんです。そのパルスワイズ変化させることによっ、ポーとジーの間のフワフワした感じの音に変わるので、1音だけでもちょっと厚みの変わった音が出せるうになるんです。ですので、そのパラメーターをちょっとでも自由に動かせるようにするだけで、表現力がまったく変わってくるんです
  
-中本:そうなんです。それで、基板めちゃくちゃ安ことに気付いてしまったんです当時はバイク通勤で、都内などこにで行けましたのでじゃあ自分正体を最初は明かさずに、とにかくってみようと。それでいろいろお話を聞いてみると、秋葉原と同じでとめて買うと安くしてくれるし、すごくお願すると安くしてくれることに気付いたんです。もう古くなってけど私が大好きだったナムコ『ゼビウス』とか、『スペースイ』の3枚組の基板とかかなり安く2,000円とか3,000円とかでどんどん買いましたね。+ところが、当時のドライバーの制作者は、「それきるのにただみんな使ってだけだよ」っ言い張ていたんです。そこ調べてみたら設定をいく変えて常にデューティ比を固定したつまり1種類音し出せななるバグがあって、そのバグが残ったま製品を出していことがわかったんです。もう「おいおい」って感じで......。でも、またまその頃に出したゲームは古いアーケードからの移植だったので、元々それほど豊な音色ではなかったんです。PSGというプログラマブルサウドジェネレっていう名前が付いていた音源使った矩形波とか3種類ノイズし出せな、ファミコンより若干劣るような音源が当たり前の時代の古いゲームでしたので、そのま出てもだいい済んじゃってはいたんですけどね。
  
-それで、「ファミコソフトは4,000~5,000円もすけどアーケード基板は2,000~3,000円で買え。だったら、じゃあ本物ほうがいいや!」って思いまして、会社には常にバイクの後ろには基板を載せて走るよう生活が始まりました(笑)。壊れいるものとかは「タダていっていい」とることもありました。元々ハドウェアの仕事もやていて、しかも解析をするのが好きしたからって帰っから家にあるテスターで調べてみたら「あ、これはファミコを業務用で15分間遊べる基板だ!入力じゃくて、LED『あ何分』という7セグの出力ここにる!」気付たことした。+『B-ウイグ』の頃になオリジナルの楽曲を入れことになったので、そこでたまたま、「人手足りな。業務用が忙て、家庭用人も足りなて、お前も作曲がきるんだたら作れみたいなこわれ作らさたのが、さにその『B-ウイング』の曲でした。出だしに流れる短いファンファレ的な曲私が作って、後にも長い曲続くんすけど長いほうの曲は先輩が作ってて、そのファンファーレ的ですか、短い曲はほんど私が作りました。メインで作曲をされては、原づささんという、うお亡くなになった女性の方なんですけど、割とフォーク畑のメロディメーカーな方でした
  
-れから、すごく親しくなった基板屋さんは、コンプラインス的に問題があるので正体は明かせなかったのですが、基板の修理とかも「これとこれを抜けばいいだけだよ」とか言って、その場で直してあげたりして夕食をごちそうになったりとか、そういうこともやっていました。まあそんな流れで、宣伝担当が雑誌に私のことをリークしたらしく、『ファミ通』とか『マル勝』とか、『ファミコン必勝本』とかで「ゲムコレクターの写真を撮りたい」と言われまして、実家に集めたソフトとか基板とかをばーっと並べて、そこの真ん中にいるような写真とかを撮って、「こういう変わった人がデーターストにいるよみたいな宣伝をしたい、会社宣伝だと思って受けてくれと」言われたことありました。でも、それってコレクターから言うとすごくつらんですよね。全部箱から出して、終わったらまた全部箱に戻すとか、そのびに傷んじゃうし、説明書はどっかに行っちゃたりするんですが、喜んでもらえるんだったらまあいいなあと。+Q:の原さんは、アード版の『B-ウング』のっていたんですか
  
-で、3誌くらいに、ちょっと恥ずかしい写真が載りました。そのうち、ひとつ残ってるのが『ファミ通』で、「中本博通」でネットで検索すると今でも出てくる、変なゲーム機とかを抱えた写真が、もう消えたと思ったらまた復活したりして、それだけはなぜかネットの狭間で漂ってるんです。その時の恥ずかし、雑誌媒体を利用してた時の忘れ形見ですね +中本いいアーケード版には、曲がほとんなかたんです
-それからもうひとつは、どご指摘があったように裏技なんですね。売れなくなった時に、もう一度火をつけるために裏技をわざ出して、またこのソフトに注目してもらおうっていうことですえ。実は、神谷さと作った『大怪獣デブラス』には、「きっと『メタルマックス』のほうが売れてこっちは売れなくら、売れない時代が来た時にすげえことができるように」ということで、ゲームをもう1個入れおいたんです。+
  
-このゲーム、デブラスという怪獣を避ら卵を運ぶシミュレーションゲームなんですが、要は自分が怪獣になって相手のユニットを壊しまくれ、自分が怪獣になれるモードが実はあったんです。「それも最初から入れようよ」って初めは言っていたんですが、「いや、売れかったときの保険入れよう」という話を神谷さんとしたのですが、隠しコマンド難しすぎて、2人とも覚えていないんです+Q:確か、プレイ中ズズズッという低音だけがってるようなゲームでしたよね
  
-:それだと、再現ないですよね?+中本そうです。「それだと、色気がないから」といことで、私のところに発注が来ました。サウンドチームは業務用で忙しくて、う家庭用まはやっていられないから、「お前、きるんだったらやれ」みたいな感じで借り出されました。
  
-中本:ネットに解析してくれた人が誰かいないかなあとも思いますが、マイナー過ぎて誰も解析してくれなくて。自分でそのモードを遊びたいんですけど遊べないっていう、自らの策にはまって世に出なかった例になってしまって(笑)。 
  
-Q:ごく簡単なコマンドだったら、自力探し当てる人がいたでしょうけど、難しいドにした結果誰も再現できななったとうのはっては面白お話です+Q:そういう経緯があったすね。ファミコン版の『B-ウイング』は電源を入れるといきなり軽やかなBGMが流れるようになっましたよね?初めて遊んだ時にアーケード版は曲が全然違っていたのびっくりした記憶があります。
  
-中本:それで、広報らもお前は何やっ?」って言われてしまいました。+中本:ええ。の軽やな曲とか、チャンチャーンチャンチャン......」いう、晴れた空曲みたいなものとかが入っていましたが、何だか全然画面に合っていない曲だなあって個人的には思ってたんですけど(笑)、まあ爽やかなものであればいいだろうなと
  
-Q:あらじめマーケィング的な意図を持っ、二枚腰と言いますか、「1粒で2度おいい」みたいな楽しみ方ができるモードを入れていんですね。+Q:タイトル画面の曲は、確かテレビCMにも使われていましたね。
  
-中本:ええ意図的に入れました。そのほにもゲームショーとかでノベルティをこともありました。そうするとなぜかジッポーとかが売れるんですよ。ゲーム業界の子供向のに、ジッポーにいろいろロゴ入れり、キャラクターたりしたのが売れたんです+中本:はい使ってました。もうれし曲がなかったので人も曲も全部有りものでやるしなかったんす。で、その時に「デューティ比とか変えると、もといい音が出せるよ」っていうことを、やっと聞き入れてらえました。その後『バギーッパ』では長い曲とかも作ようになったんですけど、こ頃から音色をある程度は選べるようなりました。そこで実はステジごと作曲者を変えて、曲調とかも変わるよう工夫していまし。それぞれの代表作ている人であれば、どの曲を誰が作曲したのかを聴いて当てることできるみいな、そんなマニアックな遊び方も実はできるんです(笑)
  
-Q:タイーストですから『探偵神宮寺三郎』シリーズの人気があっのでジッポーが売れたのではないでしょうか?+Q:当時のサウンドチムはだいい何名くらいいたのでしょうか?
  
-中本:かもしれすね。確かシリーズは売れました+中本:当時は混成部隊のような状態したので、確か私を入れて5人うち4人が業務用の担当でした。
  
-Q:「名人」というは、要はメディアミックスですから今のYouTuberぽいですよね、そのよなプロモーションをするというとで+Q:先程、デューティ比か波形とかのお話が出ましたけど、そういう概念は、当時から、そういうキーワードセット理解して提案していたんですか?
  
-中本:そなんです。あんまり見られない、週に1回しか見られないYouTuberですね。+中本:はい。シンセサイザーをやっている時には、まさにこが肝だったんです。ので、シンセサイザーのことを本当にわかっている人は、すぐに理解してくれました。今、私がお話したのと同じことを、当時の社内でも説明をしていたんです。プログラマーでれば、デューティ比のことはわかってくれたですけど、音のことがわかない。音楽をやっている人は、デューティ比って言わてもおそらくわからない。じゃあせめて「矩形波の音とか、三角波の音ってこうよね?」という話をてもななか通じなかったので、「もう現物をせるしかないな」ということになったんですね。
  
-Q:名人としてお仕事は違いますデータイーストゲームミュージックバンド「ゲーマデリック」のメンバーに中本んも誘わていたのでしょうか?+Q:知識のセットいますそういうものはどこから学んだんですか?シンセサーの雑誌とか大学とかで勉強をされたのでしょうか?
  
-中本:いえいえの音楽性とか演奏技術もと......+中本:それはやっぱり基本的には雑誌ですね。雑誌を見て、自分でも何かをやってみるというがすごく好きだったので、シンセサイザーも「シンセサイザーからを出してみよう」みたいな本があったので読んでいました。その本が出たのは多分、大学に入ってからだ思います。それら全然関係ないんすけど、BCL大好きでしたので、あの山田耕嗣先生の、シート付きのBCL入門みたいな本読んでいましたね
  
-Q:セ担当メンバに入れなかったのでしょうか?+Q:サウドチームの方々は、元々どういうこをやられいた方なんですか?と、言いますのは、まだ当時はゲム産業が立ち上がったばかりで、みなさんゲームを元々やらていたわけではなかったのではないかと思っているのですが、どいう方がサウンドチームにいらっしゃったんですか?
  
-中本:いやいや。もうその頃は、シンセデジタルの時代したどちらかというと楽器で、音驚く時代もう過ぎていていましたので。私がシンセで本当に人せたのは、高校時代の学園祭ぐいだったと思います。その時はみんなよく知ないけど、ステージですごいことが、かよくわからないことが起こっるみたいなととかできたんですけどもう楽的に古くってと思います。+中本:当時のサウンドにた人間は、りFM音源を使える人すとか、作曲ができる人ですか、「ズバリ、こういうきる人くださ」っていう、かなりニッチな募集してからていたと思います。そらですが、FM音源ていなかったPSGの頃は、プログラマーかデザイナーとか全然違う方がやっていて、専門職ができ始めのは多分FM源とかが出始めた頃からではないと思います。ただ、その大元のところに関しては多分、私の先輩の世代なので、ちょっとわからないですね
  
-Q:一時期各メーカーが結成したゲームミュージックライブが流行したことがありましたが、こちのほには全然関わないんですね+ファミコンに関しては元々の音屋さんは業務用の仕事ばっかりやっていましたので、ファミコのほうはどうしても低く、下見られ傾向がありました。おそく、会社がなくなる直前までずっとそたと思ます。業務用はあくま、コンシューマーとかが目指「高み」である必要があり、その後を追ってくるのがコンシューマーだっていう流れがやっぱりありました
  
-中本:ですね。サウンド部屋行って、遊び程度でちょっギターいてたりとか、サウドチームの人から飽きた古い安く売ってもらったことはありましたけどね。+私はこには大きく異を唱えたかったのですが、当時の自分は音楽性が一番欠けいました。多くの作曲者や音を作る人を見たうえ、「本当に、ゃん音楽やってる人を入れてくださ」っお願いしまし。音を作るのはきっと誰でも教えられるけど、曲作、しかも限られた音の中で作るのは、きっと限界があるだろうなと。私は『ヘラクレスの栄光』とか、『ペナトリーグホームランナイター』の楽すべ受け持つという責任を負った時に、う逃げ出したいくいのいろいろな曲をゲームごとに作らなくてはいけなかったので、楽しみながらもかなり厳しい思いをしました。ですから、れをずっ続けるの無理だろうなと早々に思いましたね。
  
-Q:音楽はあくで趣味範囲関わていらっしったということです+そこで「本格的な音屋さんを採用してもらえせんか?」と、当時上司とかに掛け合、「いいよ」と言ていただけまた。ちょうどファミコンが上り調子で、売れ行きも予想より高かったりしたので、もうどんどん作ろうぜという勢いがありました。当時はほかのどの会社さんも同じだったと思いますが、「じゃあ、れからはコンシューマー中心でやろう」。当時のデータイーストは、みなさんもよくご存知かと思いますが、ガスマスクとかシイタケ栽培とか、いろいろな事業をやっていたんです。
  
-中本趣味の範囲でしたね。ですから去年やった「ヘラクレス栄光」リーズサウンド座談会に出た時も、「俺サウンドじゃないよね?」ってみんな言ったのですが、「いやいや、サウンドですよサウンド」って言われちゃいまして。サウンドチームのみさんとは、麻雀仲間でもありましたね。酒井さんとか濱田さん、それからMR☆K(みすたけ)木内さんとか+シイタケとはキノコのシイタケことですよね?後々有名になりました
  
-元電撃ネットワ木内さんですね。+中本そうです。キノコのシイタケの栽培ですね。社長が、「いつまでゲームで食えるのかがわからないから、ほかにも食えるようになる柱を立てるんだ」と言いながらやってはいたんですけど。まあそれ自体は別にいいのですが、方向性が違い過ぎるのではないかなあと。柱は柱でも、もうちょっとゲムに近いもを立てたほうがいいだろうということに、社長も気付いたんですね。
  
-中本:そんがりがあったので、セガに濱田さが移籍した時もセガの保養所我々なぜかいたりし。でも学生時代いう遊びは、やっぱり役に立つなあ。やぱ、大学生は遊ばないとダメですよ。生意気で遊び好きのほうが、今まで楽しく過ごせるんじゃないかな思います。すみままた話がそれゃいました(笑)+ファミコンがまだ柱にるとは思ってったのかもしれないんすけどほかの事業を全部畳ゲーム1本っていう時、音楽性当時ら元々持って吉田さんが業務用のチームに来て、家庭用うは、今はHAL研究所かで頑張る酒井さんか、それから濱田さんや高濱さんとかもそうですが、デモ曲かを聞かてもらって、「もう全然、それでオーケーじん」みたな感じで採って、専門家のサウンドチームを作りました。
  
 +酒井さんはとてもできる方で、人のマネジメントや、別の人が作った曲のマネジメントとかもできましたので、「よし、これでもうオーケーだぜ」みたいな感じになってた時に、逆に私はどんどん企画のほうに、ゲーム企画の立ち上げのところを見なくちゃいけないという立場に、職種が変わっていきました。
  
-====改め返るイーストならではの社風====+それなのに、「ちょっと、お前に作っほしい」みたいなことを言われて、「ええ、じゃあやますよ」って言って作ったのが『ペナントリグホームランナ』の曲した。その時、もうサウンドチームがちゃんとできていたで、そこでやればよかったんですけど、それがサウンドとしては最後の仕事で、全曲担当しましたね。
  
-Q:お話聞いていますと引き抜きを恐れていた時期もあったけどナムコと関係とか、そうやってセガさんにも出入りができのは、データイーストでは企業間の垣根が低かったからということですか?+Q:中本さんがサウンド制作だけ担当していた頃は例えば『バギーポッパー』の時には、最初企画会議とかにも参加されていですか?
  
-中本:それもあっと思いますね。業界は割と古いほうですが元々ウチから見ればセガさん大手ナムコさん超大手で、タイトーさんとかも雲の上。社長はそう思ってなかったかもしません、少なとも現場はそう思ていて、データイーストポジションは業界内では最弱だったと思っていました。で、「変なものば自分たちが最強」みたいな、そういうだわりはみんな持ってたんじゃないかなと思いま+中本:元々ファミコン好きでしで、「この企画は、家庭用としてどうなだ?」といった意見を求めらることすご多かので、よく口出していました遊んいる最中に、裏技とかを見つけた時はすごく嬉しいですから、「これには裏技必ず入ようね」みたいなことを言っていました
  
-Q:ム会社は、別閉鎖的でないけれども昔はそれほど他社のやりとりはしないイメージ強かったのでが、今日お話を聞いてると開発する人企画レベルかではかり交流があったようで+Q:確かに、デタイーストのファミコン用ソフトには、隠しキャラか裏技たくさん入ていましね。最初『B-ウイング』頃からずっそん印象があります。
  
-中本:はい結構ありしたね。の辺おそらく、当時社長の福田さんや営業部長の人脈があったのかといがします+中本:ええ。すみません、まさにせいですね(笑)。裏技があると、やぱりみさんれしったりしますので
  
-Q:社員の皆さんのほう入社退社じゃないやりとかも結構んです+Q:『B-ウイング』すと例えば隠しウイングか、隠れキャラの「VOLマーク」とかりまし
  
-中本まあ、そうすねどちらかと言えば、入ってくるのは外注さんでウチずっ滞在してか、「企画担当者が、あの部屋をずっと占領してるぞ」みたな、そんなイメージで+はい。よくご存知で。これって、もう本当マニアじゃない知らないとけど
  
-Q:外注んが「滞在している言うのはタイストといて仕事をしているということですね?+Q:それから、『バギーポッパー』では他車を1台もクラッシュせなでクリアすると隠しボーナス得点が加算されたりとか元のアド版『バーニンラバー』もなかたフィーチャーが入ったりしていましたよね?
  
-中本:はい、そうです。+中本:ええ、そうなんですよ。何だか、鳥肌が立ちますね。気付いてくれない人のほうが圧倒的に多いので
  
-Q:90年代のゲーム業界、外注言えばラインを1個外に借りて1本のラインの仕事をまるごと投げるような使方がイメージとしは強いのですが今日お話聞いていますと、必ずもそうではなかっんですね。+Q:当時『ファミマガ』ですファミコ専門誌裏技コーナーにだいた掲載されていましたので、当時プレイヤーはそれ読みながら遊んでいましたね。
  
-中本:全体プロジェクトの一部をアウトソーシングるものが多くて最初は企画を自分たちが主体でやていたのが、逆に企画だけをアウトソーシングし、制作陣中で全部そろえようっていきました。まるごと外に出しるももなくはないんでけど、すかったです。丸投げ近かったのは『ドロップロックほらホラ』とうゲームがそうしたね+中本:ありがとうございま。で今度は企画のほうに回ったのですが、ただ企画だけをいればいいといういうわけでありませんした。やっぱり、金の匂いがすは人が集まてくるのは今も昔も変わらなくて、持ち込み企画も増えていきました「こういうのを出し」とか「こういうのはどうか?」とか、あるいは「うちを使ってくれないか?」とか、要はプログラムの外注をします、企画を出しまとか、そういう持ち込みがたさん来るようにりまし、私がいろいろな所へ見った発掘をしたりしてました。やっぱり、だんだんライン足りなくなってくる状況にはなっていましたので、そういうこともだいぶ増えていきましたね
  
-Q:PCエジン用のパズルゲームですね。+###ファミコ名人としてテレビに出演、企画や外注管理も担当
  
-中本はい。落ち物パズルゲムの国内版で、「『マジカルロップ』的なものをひとつ作ってみよう」ということでて、行程管理とかもやりましたが、向こうに企画の方もプログラマーもほとんどの人がいましたのでについては進捗確認をやっていたとい形でした。多分ですけど、私中の人だったとうことでスタッフロール私の名前も、はっきりとは覚えてなんですけど出てると思います。こはほぼ外だけで作っもの、あとは『パチンコグランプリ』とかもそうでしたね。+ードウェアまって、サウンドの次は企画、から外注うも見られて本当にいろな業務をご経験されたね。
  
-ファミコンディスクシステパチコゲですか?+中本そうですね。それから、これも以前に何度かお話をしたことがありますけど、別に副業というわけではありませんが、元々は放送劇とか番組作りが得意でしたで、もう今ではほとんどないと思いますけど、当時はゲーソフト説明書とかに書いてある番号に電話を掛けると、最新情報が聞けるようなテレフォビスがあったんです。最初は営業のほうで作り始めたのですが、あまりにも出来がひどくて大笑いしちゃいましたので、「じゃあ、そんなに笑うなら、お前が作ってみろ」って言われたんです。
  
-中本ええ。それはマリオネットさんという会社で、ほかにもパチコソ、確か『パチコン』とかも作っていました。+かに、ファミコブームの時代はいろいろなメーカーがテレォンサービスっていましたよね
  
-TOEMIラが、ファミコン発売したパチンコゲね。+中本何だかうちの会社って、きっかけになるのが全部このパターですよね(笑)。「そんなに言うならお前やれ」っていう会社だったので「じゃあやりますよ」と言って、試しに1本作ってそれを聞かせたら、「これだ!」みたいなことを言われまして。それで、全然お金が出なかったので、自宅にしか必要な機材がありませんでしたから、自分の機材で多重録音とか効果音とか曲とかを、新作が出るたびに作るっていました。ナレションも含めて、もう全部自分やるしかなかったので、夜中なのにテンションをめちゃくちゃ上げてしゃべっていましたね。
  
-中本TOEMIランドだったですかね。それも確か大元のゲームを作った自社では出してはなくて、大元マリオネットさん。パチンコもの、ろいろな跳ねものとかのシミュレーターを作られてたんですけど、おそらく発売でるネタはたくさんあても発売できる所がたという、ウチのものをナムコさんで出ていたのとは逆パターンだったですね。じゃあ、ウチからもパチンコ的なものを出してもいいんじゃないかと。安かったこともありましたしね(笑)+:それが後に「中本名人」あるいは「中本博士」とうキャラクターが出来るきっかけになっったわけですね。
  
-私がプロデュースでしたわけではなったのです、ゲームを見るうで「お前ら、もっとパチンコやってい。そってい」って、なぜか私1人いの担当者が当時部長ら言われたんで+中本:い。結局、そういうことになっちゃいましね。「そういうのができんだったら」といこと、当時は私の先輩である企画の人間が博士」としてテレビに出ていたんですけど何だかモゴモゴしゃべっていたり、モジモジしていてテレビ映りがうダメで......「中沢博士」っていう初代の博士なんですけど。その後、じゃあ元気生きの良い人間にやらせようっていうことで、「小林博士に変わって、彼は僕の同期で、後に『ペナントリーグホームランナイター』のプログラマーをやることにるんですけど、彼が2代目博士して出るよになったんです。でも、何かしっりこなかったみたで、そ3代目として私が起用されるっていうことになって、なぜがしばらく続いてしまっという、そな流れした
  
-Q:業務命令でてこいというのは、すごいお話ですね。+Q:当時、中本さんはテレビ番組のファミ子大作戦出演されてましたよね。
  
-中本:意味かんないんですけどね。まあ要するに、「パチンコ店ってこい。知らんもんは作れんから知ってこい」ということすがそういう社風らずとありました+中本:あの頃は、かなりバカなことをさせられましたね。なんか、バイクで子供の所に行って、「博士の家庭訪問」みたいことをやらされたりして、「ポーズをとりなら走ってください」と言われながら子供の家まで行って、それって道交法違反なじゃないのと思うんですけど、子供ゲームの遊び方を教えて、「じゃあね!」みたいなことたりし、「何だこれ、こなことまで仕事でやるのって(笑)。まあやる以上中途半端にやるのは嫌だったので、もうノリノリでやるしないていう感じでした。
  
-Q:会社はて、だだん業績が悪くなて倒産することになってしまいましたが中本さんが実際に現場にいらっしゃった時に、会社がずくなってきたなと実感始め時期っは、だいたいいつ頃したか?+Q:すると、当時の会社かなりお金あったですね。「ファミ子大作戦」のスポンサーになって、テレビCMも作て流ていました
  
-中本:そですね......セガサターン用ソフトの開発ていた頃か「だいぶまずない?」っていうのはありました+中本:多分の時は、結構あったんじゃないです。そんなことやっていた頃に、個人的にすごくよったのがのメーカーの方と接点ができたことでした。ほのメーカーは営業とか、広報関係の方が博士をやっていたんですけど、私と同じよに開発だったが、バンダイの神谷春輝さんという、橋本名人のサブ名人的なポジションのような方でした。
  
-Q:開発費が騰したとかルス芳しくなかたとうことでょうか?+Q:ハドソンの橋名人をはじめあの時代は各メカーの営業や広報担当の社員名人を名乗たよね。
  
-中本:はい、そうですその頃になると、プレイステーショトル『マジカルドロップ』は自社での成功例だったうんですけど、それ以外例えば『慟哭そして...』のよ作家さんや原画担当の方にどしてもすごくお金を使タイトル増えていっんです。しグラフィックの量が増えましたので、その制作費とかが高騰すると、話題性が出評価もそこそこ受けたとしても、本数がそれほど伸びなくなるというようなものが大型タイトル化しつつリクプしくくなってしまうと。昔体力た頃はまだ頑張れたんですど、もうそこまでの体力その頃には残っていなくてという感じでした+中本:ええイの神谷名人開発畑で外注管理とかをしていまして、自社開発よりは、ほとど外にお願いすることが多かったらしいですね。それで、「内製だとこだけど外製だとこ苦労あるよね」みいな、開発の真面目な話や悩みと、動かないプログラムはどうしたら動くとか、そんなをしいるうちに、意気投合して仕事が終わった後に時々会うようったんです。ある日ゲームショーに行った時にばったり会って、「何か一緒にやろか」いう話をしたのがけでできたのが、『大怪獣デブラス』というファミコンソフトでした。
  
-ですからこれを最後にもうディリーズした感じでしょうか。仲間はちょと、あ、私話を聞いた時は、もうクラクラ倒れそうになった社員もっていうのは、いまだに覚えていますけども。扉に鍵がかけられみたいな感じそれではもうオープンな感じで、大学ノーにびっし書い「俺のゲームを見てくれ!」っていう、高校生みたいる時期もあっすけどね。いううな感じが、やぱ、そ頃になると主要な人も分抜けちゃっていました。+ちょうど当時は『メタルマッス』ゲームも作ていたが、これ持ち込み企画したね。そういう企画もあるんだけど、ウチはウチで『ヘラクレスの栄光』っていうのが別であったんですけども、「変なゲームを出せるメーカー」と業界内で認識さていたみたいでそれで竜とかが出てこない、戦車のRPGというコンセプト会社にということもあり、『メタルマックス』の製作が決まったんす。『メタルマックス』は当時の営業部長がお墨付きのプロジェクで、予算もかな使っっていて、一方で私のほ、いわば知と作っているようなゲームでしの半分以下の予算ももらえななかで、も見返してやろみたいな感じで作ていたですが結果的には巨資本には勝てず、あっちのほうが売れちゃったんですけどね
  
-私のほうでも、会社の外から「こっちに来いよ」みたいな話もらったりしてい。でも義理があるし、自分は古人間なの、そう簡単には離れられないんだよなとは思っていたのですが、とある時期に社長の決断がありまして、「ああ、ついに社長、その決断なさるのね」っていうことになって、どこまでもついていくつもりだったんですけど、それだけはちょっと受け入れられないみたいなことがあったんです。+Q:会社をまたいでゲームっていたんです
  
-当時の社長の心理状態を考えたら、明らかにそういうとを言えない人な本人名誉のために詳しいことは言えません、ゲームメーカーとしてあるまじきこと発言されたのを機に、私のほかもそを聞いしまった人がいたのですが、それまでは骨をうずめまでいよう思っていた人間もそのタイミング辞めてしまったとこともありました。まあ、経営者としてはしようがないと言いますか、うまくいっている期の経営者として良かったというかいい意味でも悪い意味でもいろいろことせてくれて、こんなに自由可能性会社はないな。ゲームにも表れています『チェルノブ』とか変なゲームばっかりって、「普通はこれ、企画ハネられるよねみたい、ちょっありえなものばかりで。+中本:この時は神谷さん決意もう素晴ら、バンダイお辞めなって独自会社を興されてから作ったです。今考えてみると、とんもないことしたなとだにつき合いもるしそこは別に恨まれてはいませんけどね。その時は、「『メタルマックス』はこんにお金て、こんなに良い待遇開発できのに、何でこっちできいんだ」みたいなを言わつつも、「わかっる、わかってるよ。ちは船頭が多いら、絶対に予定どおにリリースできないよ。こちが先に出して、売上見返してやろうぜ」なんてこを言いながら作ってたんすね
  
-Q:『チェルノブ』時、新聞でもかれしたよ+だけど、どうしても宣伝費とかをかけてもらえないし、一部に好評で今でもファンだって言ってくださる方もいらっしゃるんですけど、そんなに売れなかったんです。そんななか、それをリリースし終わった会社から出た私への辞令がとても残酷なもの、「その『メタルマックス』をどうにかせい」っていうのでした。もう全然進まず、リリースの目処も立たなくなっていたのを、「なんとしろ」って言わたんですね。私からすればかなり敵視ていプロジェクトでしたが、このままでは会社が困っちゃううなことでしたし、そこは神谷さんに後々恨まれることになってでも、『メタルマックス』を進めなくちゃいけないと
  
-中本:テレビ『トゥナイト』でも叩かれました取材仕方全然違のに実際放送れた時には、意図的編集されて悪意の塊ようになっしていましので、当時の開発部長はすごってましたね。まあでも、それだけのことはやっていたよねっていう+ただ、正直楽だったは、言わば別の人のものだったので、進行させるためにはたえ大事なものでも容赦なく切ることができました。「こシナリオ、このマップがないと進まない」って言ってきても、「ここしたらいいじゃないですか。じゃあカット」みたいな感じでバサバサ切っちゃったんです。「とかく出ないことには、もう後がない。逆、古くなばなるほど鮮度が落ち、すごく良いもができしても売れなくなっブームが過ぎたら終わりだよ」って当時ってましたね。
  
-Q:し『戦う人発電所』なんサブタイトルも付いていしたから+ネタが世の中に出てあまりにも時が経っているっていうことを、当時の宮岡さんや桝田さんに一生懸命直訴ながら、メーカーの弱い立場から言い、何とかそこは同意していだいて、多分すごく不満はあったと思うんですけど一作目をリリースすることができたんです。それが、そこそこ売れて手応えがあったっていうことで、すぐ続編の話が出て、『メタルマックス2』の開発には最初から入ることになりました
  
-中本ですよね。しかも、名前が『チェノブ』ですから今だったら会社ごと本当につぶされてますよ(笑)。あれゲーム文化のなかにおいて、変な花を咲かせていたのでし技術に関しても、吸収できるこは何でもやらせてくれました。コピープロテクト対策で、結構当時まだマイナーだっんですけどディスクハッカー、マジコン当時あったんですよ、ゲームソフトをコピーするやつですね。で、マジコンはどんなものと言いますとディスクシステムなんです。ソフトのデータをディスクシステムへ物理的に吸い出して、それを専用のRAMアダプターで再生するみたいなものまで出てくる始末でした。+「メタマックス」の「竜退治はもうあきた。いう有名なキャッチコピーはどなたが考えたんですか
  
-最初はROMカートリッジ2個挿して、ただ単純に焼くだけでコピーできたのがあったですけどそれはバク切り替えチップをいろいろ変えあるいは先程言いまたよう、他社さんではもういろいろチップを作ていまし、その全部に対応したものを作るのは物理的に無理ですから、これらのカセットは普通はコピーできないんです。でもマジコンは、その専用チップが載っているカートリッジが何か1種類あれば、データ部分を差し替えて使えちゃいう、もう手強いといますか、中国恐るべいなものだったんです(笑)+中本:桝田省治さんです。『俺の屍越えゆけ』とか『天外魔境』とかったですね。桝田さんが当時I&Sという広告代理店から多分スピアウトしのか、もしくはフリーになった直後でしたが、そういうセンスはすごいました
  
-ディスクハッカーは多分国産すけどディスク入れ替ることでコピーできてしまうのにディスクハッカ自身はコピができないとそううこあった時仕組み解析させられました。+と、いうよう感じで、博士の仕事やったために、逆に細かい仕事が増えてしまいました。当時は各地を回って営業や福岡ゲムショみたい内覧会みたなこをやっていたんですね営業部員が当時は少なかったので、「お前は顔も外に出てるんだし、人しゃべれるか?じゃてこい」などと言われて、北海道とかも1人で行かされて設営して名刺交換して「いつもお世話になってます」とか言って、知らない怖い問屋さんとお話したりしなら、営業分と自分の分とを配ったりとか、営業活動もやたりしました
  
-Q:一時期ファミコンソフトのコピー業者がほの一瞬ですけどはびこって、マスコミに叩れ出したら一斉にいなくなった時期がありましたよね。+Q:配るというのは新作ソフトのサンプルROMとか、販促物を配っていたんですか
  
-中本:ええ。もサーッといなくなっちゃったんですけど、そのには対策とか対応を「バン切り替えチップとかの解析もできるんだからそういうのもできるだろう」ということで、プログラマーで何でもなかったんですけどやらされました。ディスクハッカひと晩ディスクハックきるようになりまして、ディクハッカがコピーできない仕組みを特定しました。ディクハッカー自身もコピーきるうになって、「こういう動をしてましたよ。ここを見て動いてます」っていうことを報告して、「じゃあ、売り出しても大丈夫だね」とか言われましね。もう本当、全然関係なないこやらされましたよね。「だよこの会社、面白いじゃねえ!」て(笑)+中本:です。ファミコンで『ドナルドランド』というゲームを作ったんですけど、そのには、ドナルドに行ってゲーム大会をやったこともありました。社用車のバンがあって、それにテレビやゲム機とかPAの機材を全部積み込ん、荻窪から千葉ま行って、ースはここて放り出された所に設営して、「きました、始めます。やあみんな!」ってながら、設営から司会も全部やって、「キミすごいね、何点!」とか「じゃあ、これ賞品です、パンパカパーン!」とか言いながら盛り上げて。で、終片付けて、「今日はお疲れ様でした!」と、コーラかかのドリンクを1本くれたりして、このコーラが何よりもうまかったですね
  
-Q:しかも、大学を出たばかりのお重要仕事を任されたわですから、なおさらすごいですね。+そのバンも、お金があるんら買い換えれいいに、当時の社内では「白い狼」って言われていて、もうクラッチとかがかしくて、ブワーンってすごうなるんだけど、全然前進まいんです。白いんですけど灰色に薄汚ていので、それで「白い狼」って言れていた、ひどい車なんです。その「白い狼」で荻窪まで帰って、そこからバイクで家に帰って「開発って何でもやるのね」と。今にして思うと、それって絶対に違うんだろうと思うんですけど、本当にデータイーストはわけがわからん会社でした(笑)
  
-中本まだペーペーな最初3年間くらいはこ使われましたよね。今だったら三六協定に絶対引っ掛かりますね。徹夜なんたりし、リリース前になったらもう泊り込み、カップ麺ばっかり食べるので太りまたね、その時は......。+『ドナルドランド』お話に出てきましたけど、中本さんはこのゲームの企画も担当されています?本家のマクドナルドとは、どうやっ許諾を取ったり、使用契約を結んだのでしょうか?当時権利を持っている代理店とかがデータイースまで営業に来ていたのでしょうか?
  
-まさにそういう時代だったんです物の本とかにもよく書かていると思うんですけど、そのような仕事の幅の広さですとか、自由さがあったのは本さんだけだったですか?それともほかのデータストのみなさんもだいたいそういう目遭っいたのょうか?+中本いいえ、どちらかというと逆で、こちらがマクドナルドに企画を持ち込んで、「ゲーム化しだけど」と話をしたのが始まりです。は、元々は別の案件だったんですけど、元々やてい方が途で折れちゃったです。でマクドナルドってご存知とおり、ィズニ並みにキャラクターに対しいんですね。
  
-中本もう適性があれば、みんなんな感じれていまし+:そすよね。だかこそ、なぜ許諾が取たのかなっすごく思っんです
  
-すみません、たい失礼聞き方......+中本各キャラクターのことをいろいろ研究しうえで、「こうう立ち位置、こういう出し方、こういう位置で出して、ドナルドがヒーローで進でいくよう形にしたいんだけど、どうすか?」って言ったら、「うん、本国に確認してみるよ」というお話になって「じゃあ、やっていいよ」ということになりました。でも、私の反省点としては、『ドナルドランド』は、ちょっとアクションゲームとしては斜め上の挑戦をしちゃったなあと
  
-中本いえいえ。でも、本当にそうでしたね。適性があったら、あれもこれも何でもやらされました。「ゲーマデリック」は、当然サウンドチームの社員が中心でしたが、そうではないもの例えば宣伝広告とかであれば、チラシを作るときのキャッチコピーを、もしうまい人誰かいたら、そういう人たちがガガンやったほうがいいよねとか。あるいはグラフィックの人が、グッズ用のデザインも作ってみたりとか、いろいろとやらされていたと思いますけど、私はちょっと特例だったかもれないですね。でも、ここまで1人にいろいろやらせら普通はダメですよね(笑)+『ドナルドランドでは、爆弾ゴになっていましたよね。
  
-でも、それは自由にいことができる社風があったいうとです+中本:そうです。あれは後輩が、「絶対リンゴの上に乗って、さらにジャンプができるってう、リンゴジャンプを前提にしたマップ組みはしちゃい」って言ってきたの、私もそれに従うべったんです。でも、当時はイケイケだったので、「今の子は、これくらいやらないとすぐ飽きられちゃよ」思ったので、そういう方向で調整をしちゃったので結構、知る人ぞ知るゲームになってしまったんですけど
  
-中本そういうのは確かにありましたね。特に、営業人員は足らなかったで、必要な時は増えて、日頃はそんらなったする部署だと、借り出されたりもしましたね。ショーの説明要員とかを、開発の人間ばっかりで担当したりして+:確かに、リンゴ上に乗った状態ジャンプしないと進めないステージともありましたね。
  
-:あるいコンシューーの人数が足りなくなった業務用から人が借り出されたりたりとかしたのでしょう+中本そうなんです。それを練習させるために、最初のステージ1-1に1UPが置いてあるんですよ。そこでリンゴ爆弾の使方を練習して取ってもらうために入れたんですけどまあリオみたいにはうまいかったですね。果たしてそれに気づいてくれた人は何人いたのかなあと。
  
-中本それもあることあったんですけどお互いに借りたくない、貸したくないという、業務用と家庭用とでそれぞれにこだわりがありましたね。家庭用は制限の中での究極を目指していて、業務用のほうは、今考えると自由でも何でもないんですけど、色数が何万色も使える中での究極を目指す。でも、声の出演とになると、「こんな声が欲しい」と言われたら、もうそんなのは関係なしでマイクの前に立たせていました。私も立たされましたね。+マクドナルドは、ゲーム内容のチェックも厳かったんですか
  
-:最質問になりますがら振返りますとゲーム産業は日本ですごく大きく花開いたと思個人的感想で結構ですのでなぜ日本こんにゲーム産業が大きくなったとお感じでか?+中本内容も見せには行ったんですけども、まず1面とかは当然、とかく綺麗感じで作りました。で耳になじんでいるマクドナルドの曲がかかり、ドナルドが投げたリンゴが人に当たっても死ななようにして、だ顔が「オッ」ってう表情に変わるだけにしたんで。そうしたら「これらいいですオーケーすよ」とりました。監修は多分、今ほど厳しったのかな思いま
  
-中本まず基本は、やはりお客様が遊んだ時にどう思う、どう感じるか。「こういう体験をさせてあげたい」「こういう気持ちに、もし自分がなった楽しいな」という、日本独特おもてなしの心が決定打なのかなと思っています。アメリカのゲームですと「ヘイ!俺、こんなの考えてみたぜ。ついて来いカモン!」みたいなのが割と多くて、「人もバンバン殺せるぜ、イーイ!」みたいなもの突然売れたりとかしますけど。日本でも、確かにそういうゲームはるのですが、基本的には「こういう気持ちになってほしい」「こうなったら楽しいよね」「こうなったらワーッと盛り上がるよね」ということを主体に考えるところが、ちょっと違うじゃないなと思っております。+企画段階でもマクドナルドからのックがあったんです
  
-それに加えて、ある程度検閲機関的ものが、任天堂の初心会とスーパーマリオクラブですか? +中本:企画時はなかったです。最初の「やっていいよ」とい時と、「できたけど、これでどう?」っていう、確認はそれだけした。今は考えられいですけどね。当時は新宿住友ビルあの三角ビルの中にマクドナルドがったんです。
-電通が始めた、ああような所一定の評価をしたり。ウチは好放題やっていんですけど、行き過ぎた部分はそブレーキが掛けられたんですね。結果アバンギャルド100のものを受け入れることができないお客さんにも、そこで「10くらいなら大丈夫」て薄められたりしていたんです+
  
-当時はプンプン言いながら、任天堂のダメ出しに答えたこともありました。例えば、メタマックス』で黒焦げの死体出てくるようにしたら、「黒焦げの死体はダメです」って言われましので、「じゃあ、普通の肌色の人間にしよう」差し替えたら、「こっちのほうが生々しじゃん」ってなったこともあったんでけどね(笑)。まあそんな感じでかく言わたことをちゃんと聞いて直さないと出してくれなかったんです。でも、そういう表現上の注意とは企画のなかにも徐々に浸透していきましたし、業務用でも『チェルノブ』で懲りたのか、その後はひどいものは出ていないと思います。+Q:ドナドランドを発売する際は、当然ロイヤリティを払契約ってたと最終的採算は取れたんですか
  
-『チェルノブ』の後も、データイーストから意味バカバカしい、面白お演出取り入れたゲームがたくさん出ていた印象+中本:はい。お陰様で、それは大丈夫でした。それどころか、ろいろと協力をしてくださってフライドポテトの引換券とをご提供ただいて、「ソフトの数だけ、それを入れてもいいよ」ということも言っていただいたんです。今で考えられないですけど、割とおおらかなご対応で、すごくややすかったです。
  
-中本:はい。『トリオ・ザ・パンチ』とかがありましよね。あれを作った井伊さんという企画がもう天才か奇人かっていうよう人間だったで、キャラクターがあんな感じになったんですやっぱり日本、みん基本的なおもてなし心を必ず持ってるんじゃないかなと。そこ他社さも含めて日本と海外のゲムと一番大きな違いではいかと思いま+本にじみないキャラクターも多かったんです。アメリカには存在するけど日本はなのもい、そういうキャラクターは比較的後ほうのステージに出すようにしました。フライガイズとかバーディとかはわかっても、グリマスともうなじみないですね。確かキャラクターの大きさこれくらいで、色こうだみたな資料はありましたので、当時らそううのは厳しいルールはありしたけどね
  
-ハードが良かったとかにそういうったもしれまんが、アタのようにならかったのは任天堂お陰で、もうけてれないのかなあとも思います。山内さんが何度っていた、「ダメゲー、ソゲーがあふれかえっている。マメディアといものがるのならば見せていたきたいとか、名言をたくさん残されていましたよね。そういう考え方に、とも当時ゲわっていた傾けたにいないと。もその1人でしたし、そこもう間違いないのではないかといますね。+Q:つまり、「ナルドランド」は日本のデータイースト独自に作って、日本のマクドナルドに持ち込んだうえでオーケーをもらったと。 
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 +中本:はいそうです。 
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 +Q:勝手な想像ですけど、当時らデータイーストはアメリカもピンボールとかを取り扱っていた現地法人がありましたよね?ですから、アメリカで作ったものを輸入していたのかなと思っていたのですが、国内産だったんですね。 
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 +中本:のルートで作ったのは『ロボコップ』ですね。当時のアメリカのほでは、ピンボールでかなり幅を利かせてて、『ロボコップ』は向こ比較的マイナーな版権だったので、むしろ「ぜひ出してよ」みたいな感じだったんです。 
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 +Q:最初はアーケード用のアクションゲームでしたよね?後に続編出またけど。 
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 +中本:そうです。『ロボコップ2』の時は、データイーストという名前入りの筐体がバッタバッタと倒さるっていう。 
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 +Q:確か、映画の中でもピンボールがめちゃくちゃに破壊されるシーンがあった記憶がありすね。当時、データイーストがスポンサーになっていた縁だと思いますが。 
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 +中本:よくご存知ですね。なので、『ロボコップ』はアメリカ発で日本で作った企画ですね。年に数回、アメリカのデータイーストのことをInc(インク)、日本のほうはCorp(コープ)と言っていたですけども、IncとCorpで共同の企画会議をやっていました。向こうこっちに来る場合とこっちから向こうに行く場合があって、向こうに行った時には、「こういう企画を日本で出すんだけど、そっちでタイップ取れるキャラクーとかはないかな?」という話をしていました。『ロボコップ』の企画は、そこから生まれて出来上がったものですね。 
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 +Q:ちょっと話が戻ってしまいますが、外注管理に関してお伺いしたいんですけれども、だいたいいつ頃から外に出せるようになったんですか?何を管理するかにもよるとは思いますが、産業としてどういうふうにゲームが増えてきたのかを考えた時に、外に出せるっていうこともひとつの要点だと思うんですけども、だいたいいつぐらの話ですか? 
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 +中本:実際に始まったのは、ファミコン『探偵神宮寺三郎』の頃から本格化し始めたと思います。外注さんがプログラムを担当したということ言えば実は『バギーポッパー』のプログラマーは外注さんなんです。外注なんですけども、プログラマーは社内に滞在して作っていただく形でしたね。もう名前出しちゃってもいいと思いますが、山形にあるエス・エー・エスという外注さんの会社があって、データイースト関連の助っ人プログラマーとして、山形の会社ではあるんですど、ずっと東京に滞在しくださって作っていただきました。 
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 +会社の中にいるタイプの外注さんとしては、多分こが一番、ファミコンのかでは古いのかなあと。で、アウトソーシングをろいろやり始めるようになったのが、『探偵神宮寺三郎』からでした。 
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 +Q:『探偵神宮寺三郎』はディスクシステム用ソフトとして発売されしたが、ディスクになったことで、何かラインを増やさざるをえないような事情があったのでしょうか? 
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 +中本:社内で嘆願があったんです。単純に開発ラインが、やりたいことはたくさんあるのに人足りなくなり、しまいには業務用から人が借り出されるようになっていたのでやっぱり業務用の人は業務用を作らなければいけないので、社内リソスが圧倒的に不足していました。サウンドに関しては先程もお話したように元々リースを増やしていたので、そこはある程度対応できたんですけれど、プログラマーやシナリオライターは不足していました。 
 + 
 +『ヘラクレスの栄光』の時代から、『ドラゴンクエスト』のヒントを受けてRPGの開発をスタートしていて、同じように『ポートピア殺人事件』をヒントに、データイースト製のアドベンチャーゲームを作ろうよっていう話から、いくつか模索しているなかで上司の知り合いで新宿在住の新聞記者の方いたですが、その人が「シナリオをざっくり作ったんだけど、これがゲームなるか見てくよ。酒の話のついでだけど......」というところらスタートしたんです。 
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 +「これ、すごくタバコを吸うシーンが出てくるんですけど、大丈夫ですか?」とも思ったのですが、よく考ると当時は今と違って、みんな自分の席でタバコを吸っていましたよね。もう今では信じられないですけど、自分の席に灰皿を置いてタバコを吸って、しかも、朝は女性の方が掃除をしたりして。 
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 +Q:昔の企業では、女性社員ばかりが掃除をしたり、お茶汲みとかをしていたんですよね。 
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 +中本:そうそう。掃除して、お茶まで出してくれんですよ今では男女差別になるかもしれませんけど。「それって新人の仕事だろ」とは思いながら、プログラーの女性の先輩とかも、プログラムがすごくできるのに、「なんでお茶汲みさせられてるのかなあ」なんて、当時は思ってたんですね。で、「ゲームの中ではタバコがよく出てくるけど、まあいいんじゃない、ほかと同じものを出しても面白くないよね」って。ウって変な、ちょっ癖のあるものが多んですよね。 
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 +Q:で、『探偵神宮寺三郎』シリーズはとても面白かったですけどね。 
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 +中本:で、開発が始まりまして、出てくる人も地名も全部、新宿とか実在ものにしまして。 
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 +Q:はい、新宿中央公園とか実在の場所登場しますよね。 
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 +中本:デザイナーも、寺田克也さんというすごい方がいるので、じゃあ頼んでみようと思ってお願いしました。実は、神宮寺の最初の曲は外注さんが作ったんです。それはぜかと言いますと、サウンドドライバーをさに進化さようっていう話があっんですね。それは何かっていうと、他社さんでは音声合成とかノイズの音をうまく使って、ドラムの音を再現でると聞いて、ウチの会社でも研究しんですけど、どうしても容量が大きくなっちゃうんです。 
 + 
 +それを少なサンプリングでできるころを探していたら、今もあるどうかはわかりませんがミュージカルプランという会社が当時ありまして、ここが素敵なサウンドドライバー持っているということを聞いて、いろいろ見せてもらったら「これはすごい!」ということで、じゃあこのドライバーを生かせる、ウチにも作曲家はたくさんいるんですけども、「このドライバーを生かした曲を作ってもらえませんか?」とお願いして作ったのが、最初の『探偵神宮寺三郎』の曲だったんです。 
 + 
 +以降は、自分たちでも技術が使えるようになりましたので、濱田さんらが担当して曲を作っていました。そういう技術の進歩と、作り手の進歩っていうのを積み上げていこうっていう一環で、外注さんを発掘していましたね。ちなみに、ミュージカルプランさんの代表作は、『ファミリーシンセいきりミュージシャン』で、まさにその音源、サウンドドライバーを使っていたんですね。もっとも、その後は濱田さんらの手によって、自社製ドライバーにまた切り替わっていかと思います。 
 + 
 +Q:ディスクシステムだと、音が増やせるのもメリットでしたよね。 
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 +中本:そうなんです。1個だけFM音源が付いているので、もうあれしびれましたね。当時は、任天堂製品先に入手することはできなかっので、ウチの新人が普通お店で予約して買ったソフトを持ってきたので、動かしたら今までに聞たことのない音が出ていたのでびっくりしましたね。 
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 +Q:『ゼルダの伝説』のオープニングテーマは、すごく良い曲で本当にびっくりしましたよね。 
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 +中本:で、外注さんの持ち込み企画か、外注さんにプログラムをお願いしたものは、PCエンジンなども出てきてさらに選択肢が増えていくと、お願いする機会が増えるようになりましたね 
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 +Q:当時はアーケードゲームのほうに、外注で作ったものがあったのでしょうか? 
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 +中本:業務用は逆で、あまりにも専用基板が特殊なもので、その仕様が外に漏れちゃうとさすがにまずいの、当時はコピー基板自体があまりなかったのですが、業務用に関してだけはほとんどプロパーな社員が対応していました。 
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 +Q:アーケードだと、テクノスジャパンが元データイーストの社員が独立てできた会社でしたが、そこで作ったのをデータイーストが発売したこともありましたよね。 
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 +中本:そうですね。そういもありましたね。あとは、他社の開発した業務用では『のぼらんか』とかがありましたけどね。 
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 +Q:『のぼらんか』の開発は、確かコアランドでしたよね。 
 + 
 +中本:そうですね。そういう提携みたいことはやりましたね。何と言ます、データイーストは人材放出会社みたいな、たくさん良い人材が外に出て大きな仕事を成し遂げるという、まあ「業界あるある」ではありすが(笑)。 
 + 
 +Q:ファミコンに続いてPCエンジンにも参入しましたし、データイーストは家庭用のマルチプラットフォーム戦略にも、かなり早めに動いた会社だったということですね? 
 + 
 +中本:はいこれからは、もう家庭用が柱になる、業務用は家庭用のマーケティングになると。要は、家庭用を売るために業務用が作られる時代が来るなって見てましたね。だけど、業務用の連中は面白くないわけですよね、「そんなハズはないだろう」と。でも、実際には時代がそのような流れになってきていましたので。 
 + 
 +Q:今の業務用と家庭用の位置付けの逆転みたいなお話は、中本さんご自身がお感じになったものなのか、それともデータイーストの中での共通認識みたいなものだったのでしょうか?
  
-=====後半データースト在職時=====+中本これはもう、世の中的なことだったと思いますよ。まず単純に、売上が上がっていましたし。多分、経営者から見るとどっちが儲かるか、業務用ですごい開発費をかけたのにンカムが少ないもと、たいして開発費をかけていない家庭用の、世の中的にはあまり評価されないソフトであっても、何ていますか先が、売上が見えるほうがいいだろうということで、家庭用のほうに傾倒していくっていう感じですね。私も多かれ少なかれ、おそらくそこに貢献をさせていただいたのかなって思います。実は、初年度は新人賞を、2年目以降も社内賞をしばらくの間いただいていました。でも、その度にみんなにおごったりするので足が出ちゃうんですけど、まあそこは喜んで出してあげて(笑)。
  
-====データイースト流のゲーム企画や開発の手順====+やっぱり、新人は先輩にどんなに目の上のたんこぶだって言われても、言いたいことを言ったほうが、それが自社のためになるのであれば、絶対プラスだと思いますので、新人の時こそ会社の色に染まる前に好き放題言ったほうが、後々きっと楽しいことがあるよと言いたいです。ですから、きっと私のことが嫌いだった先輩もたくさんいたと思います。もう間違いなく、生意気な奴だって思われていたでしょうね。 
 + 
 +##後半: データイースト在職時の証言 
 + 
 +###データイースト流のゲーム企画や開発の手順
  
 Q:ラインがだんだん増えてきて、外注先ができたということでしたが、ラインを増やそうというモチベーションもあったわけですし、いろんな企画が上がってきたりということもあると思うんですけど、どういうプロセスを経て、出てきた企画が実際のラインに乗るような形だったんですか? Q:ラインがだんだん増えてきて、外注先ができたということでしたが、ラインを増やそうというモチベーションもあったわけですし、いろんな企画が上がってきたりということもあると思うんですけど、どういうプロセスを経て、出てきた企画が実際のラインに乗るような形だったんですか?
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 Q:野島一成さんですね。 Q:野島一成さんですね。
  
-:ええ。後に、『ファイナルファンタジーVII』とかを作った野島さんですね。彼は、特に営業とかに行ってキャッチアップするのがうまかった企画でしたね。逆に、営業とかにも一切行かなくて我が道を突き進む、もう「ゲーム道」みたいな自分で極める感じでやっていたのが渡辺さんという企画で、『サイレントデバッカーズ』とか、すごい特殊過ぎて「マニアでもちょっとできねえよ!」というようなゲームとかを作る、いろいろなタイプの企画がいました。+中本:ええ。後に、『ファイナルファンタジーVII』とかを作った野島さんですね。彼は、特に営業とかに行ってキャッチアップするのがうまかった企画でしたね。逆に、営業とかにも一切行かなくて我が道を突き進む、もう「ゲーム道」みたいな自分で極める感じでやっていたのが渡辺さんという企画で、『サイレントデバッカーズ』とか、すごい特殊過ぎて「マニアでもちょっとできねえよ!」というようなゲームとかを作る、いろいろなタイプの企画がいました。
  
 そんな企画のメンバーたちの個性というのが、最終的には会社のカラーになっていったのかなと思います。今の企業では考えられない、KPI無視のやる気重視で(笑)、俺を信じろ型の開発でした。マーケティングの真似事みたいなものも、ちゃんと勉強しようということでいろいろなポジショニングマップを作ったりとか、今いるお客さんを、「この象限からこっちの象限に引き上げるためには、このタイトルを出すんだ」みたいなこともやったんですけど、それはあくまで自分の話を聞かせるための説得材料として使っていたので、本気でマーケティングをしたと言うよりは、自分の企画を通すためのツールとして利用していたというのが実態ではなかったかと思います。 そんな企画のメンバーたちの個性というのが、最終的には会社のカラーになっていったのかなと思います。今の企業では考えられない、KPI無視のやる気重視で(笑)、俺を信じろ型の開発でした。マーケティングの真似事みたいなものも、ちゃんと勉強しようということでいろいろなポジショニングマップを作ったりとか、今いるお客さんを、「この象限からこっちの象限に引き上げるためには、このタイトルを出すんだ」みたいなこともやったんですけど、それはあくまで自分の話を聞かせるための説得材料として使っていたので、本気でマーケティングをしたと言うよりは、自分の企画を通すためのツールとして利用していたというのが実態ではなかったかと思います。
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 中本:それから、『タッグチームプロレスリング』とかもそうですね。 中本:それから、『タッグチームプロレスリング』とかもそうですね。
  
-Q: +Q:『タッグチームプロレスリング』も、元はデータイーストのアーケードゲームでしたよね。
-『タッグチームプロレスリング』も、元はデータイーストのアーケードゲームでしたよね。+
  
 中本:ナムコさんは特殊チップを持っておられたので、私は入社当時からファミコンがもう好き過ぎてしょうがなかったんですけど、ハードウェアをたまたまやっていましたので、バンク切り替えチップですとかを、他社さんがオリジナルで作られていたのがわかっていたんですね。任天堂さんのほうでも、途中からMMC1とかMMC3とかを作って共通化していったんですけれど、それまでは各メーカーが勝手に作っていた変な時代がありまして、その頃は他社さんのバンク切り替えチップの動作を個人的な趣味で調べていたんです。 中本:ナムコさんは特殊チップを持っておられたので、私は入社当時からファミコンがもう好き過ぎてしょうがなかったんですけど、ハードウェアをたまたまやっていましたので、バンク切り替えチップですとかを、他社さんがオリジナルで作られていたのがわかっていたんですね。任天堂さんのほうでも、途中からMMC1とかMMC3とかを作って共通化していったんですけれど、それまでは各メーカーが勝手に作っていた変な時代がありまして、その頃は他社さんのバンク切り替えチップの動作を個人的な趣味で調べていたんです。
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 中本:でも、ちゃんと実現できましたので、「あのプログラマーはすごいや」「彼はすごい能力の持ち主だよ」って、お詫びに周りに触れ回ることで許してもらいました(笑)。まあそんな失敗とかがいろいろとありましたね。すみません、また話がそれてしまいました......。 中本:でも、ちゃんと実現できましたので、「あのプログラマーはすごいや」「彼はすごい能力の持ち主だよ」って、お詫びに周りに触れ回ることで許してもらいました(笑)。まあそんな失敗とかがいろいろとありましたね。すみません、また話がそれてしまいました......。
  
-====アーケードゲームの開発も担当====+###アーケードゲームの開発も担当
  
 Q:中本さんは、アーケードゲームの『強行突破』と『ダーウィン4078』の開発も担当されたそうですが、そもそもアーケードゲームの開発を担当するようになったのはなぜですか? Q:中本さんは、アーケードゲームの『強行突破』と『ダーウィン4078』の開発も担当されたそうですが、そもそもアーケードゲームの開発を担当するようになったのはなぜですか?
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-====ファミコン名人ブーム期の業務内容====+###ファミコン名人ブーム期の業務内容
  
 Q:いわゆる、ファミコン名人ブームの時期がありましたよね? Q:いわゆる、ファミコン名人ブームの時期がありましたよね?
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-====改めて振り返る、データイーストならではの社風====+###改めて振り返る、データイーストならではの社風
  
 Q:今のお話を聞いていますと、昔は引き抜きを恐れていた時期もあったけど、ナムコとの関係とか、そうやってセガさんにも出入りができたのは、データイーストでは企業間の垣根が低かったからということですか? Q:今のお話を聞いていますと、昔は引き抜きを恐れていた時期もあったけど、ナムコとの関係とか、そうやってセガさんにも出入りができたのは、データイーストでは企業間の垣根が低かったからということですか?
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 ハードが良かったとか、確かにそういう面もあったかもしれませんが、アタリのようにならなかったのは任天堂のお陰で、もう足を向けて寝れないのかなあとも思います。山内さんが何度も仰っていた、「ダメゲー、クソゲーが世の中にあふれかえっている。マルチメディアというものがあるのならば見せていただきたい」とか、名言をたくさん残されていましたよね。そういう考え方に、少なくとも当時ゲームに携わっていた者は耳を傾けたに違いないと。私もその1人でしたし、そこはもう間違いないのではないかと思いますね。 ハードが良かったとか、確かにそういう面もあったかもしれませんが、アタリのようにならなかったのは任天堂のお陰で、もう足を向けて寝れないのかなあとも思います。山内さんが何度も仰っていた、「ダメゲー、クソゲーが世の中にあふれかえっている。マルチメディアというものがあるのならば見せていただきたい」とか、名言をたくさん残されていましたよね。そういう考え方に、少なくとも当時ゲームに携わっていた者は耳を傾けたに違いないと。私もその1人でしたし、そこはもう間違いないのではないかと思いますね。
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