中本博通インタビュー

前半:データイーストのゲーム開発の歴史

電気工作、シンセサイザーに夢中になった少年時代

Q:本日はよろしくお願いします。まずは子供の頃から振り返っていただきたいのですが、どのようなきっかけでゲームと触れ合うようになったのでしょうか?

中本:よろしくお願いします。私が住んでいた、生まれた所には「としまえん」という遊園地が練馬区にございまして、ちょうどそこの真裏の辺りでした。「としまえん」の近所に住んでいると、いわゆるタダ券みたいなものが配られましたので、そこへよく遊びに行っていました。

通常の乗り物は数が限られていますので、すぐに飽きてしまうのですが、そこにはゲームコーナーもありました。当初はエレメカと言われている、ナムコさんですとか、タイトーさんが作られたようなエレメカ中心のコーナーでしたが、その中にもビデオゲームがありました。そこにちょっと未来を感じたみたいなところが、一番最初のゲームとの出会いでしたね。

Q:それは、いつぐらいのことですか?

中本:年代で言いますと、中学生の頃だったので74年くらいになると思います。ただ、それは単に出会ったというだけで、実際にハマったのは77年に高校に入ってからで、『スペースインベーダー』にハマったのがスタートという感じになりますね。

Q:『スペースインベーダー』は、1978年に登場して大ブームになっていますよね?そのインパクトはやはり大きかったんですか?

中本:大きかったですね。高校時代、当時は世の中がまだ今ほど厳しくなくて、夜でも普通に放し飼いされても安全な町だったので、コンビニエンスストアだとかも24時間営業で、いろいろな夜遊びができるようになっていた時期で、友人と時間を潰すのに『スペースインベーダー』とかがちょうどよくて、まあハマっていったというところですね。

それから機械、デッキいじりが元々大好きでした。昭和の時代は、町の至る所にテレビが捨ててありました。真空管式の白黒テレビとか、古い洗濯機とかが落っこちてまして、それらを拾ってきては分解して、好きな部品を付けてみたいなことからだんだん興味を持ち始めて、トランジスタとかを秋葉原に行ったときに買ってもらって、電気工作を始めたような感じでした。

ゲームもすごく好きだったのですが、それ以上にテープレコーダーとかで録音をしたり、デッキをいじることが大好きでした。昔はLLカセットという学習機材があって、親が勉強させるために買ってくれたんですけど、当時は多重録音と言ったのですが、例えば最初のトラックに笛を吹いて、2番目のトラックにはピアニカか何かの音を入れて重ねると、1人で合奏ができてわー面白い、みたいな遊び方が中心でしたね。

Q:その当時、何か読んでいた雑誌とかはありましたか?

中本:はい。まず雑誌というよりは、小学校の頃に親からプレゼントされた、『なぜなに学習漫画図鑑』みたいなセットがありまして、今で言う科学のいろんな分野が漫画化されている書籍が、確か小学館だったと思うんですけど、そういう本がありました。

で、その本の電気のコーナーがとても好きで、ボロボロになるまで読みましたね。当時、学校でも自分でモーターや電磁石、ブザーとかを作れる教材があったんですけど、それを漫画で得た知識を利用して、巻く数を増やしたり、電圧を上げるとより磁力が強くなるとか、自分でカスタマイズして遊んでいたことが、後々いろいろとつながっていったのかなと思います。

ほかに読んでいた雑誌ですが、まあありがちなんですけども『初歩のラジオ』とか『ラジオの製作』ですね。小学校の頃は、泉弘志先生の電気工作ムックみたいなものがありまして、そういうので、なんかモールス信号の練習機みたいなやつとか、夜になると点灯するランプとか、そういうところからスタートしまして。アナログの電気工作がすごく好きで、高校でも大学でもずっと続けていましたね。

あとは、中学生の頃にハマったのがアナログシンセサイザーでした。『太陽に吠えろ』のサスペンスシーンとかで出てくる、「ビャン、ビャン、ビャン、ビャン......」っていう曲があるんですけど、その音をどうやって出しているのかにすごく興味があったんです。中学の終わりくらいに、それが「シンセサイザーという楽器で出るらしい」ということをどこかで知りまして、当時秋葉原のラオックスに楽器館っていうのがあったのですが、そこではシンセサイザーが触れるようになっていたので、よく通っていましたね。

最初は音をどうやって出すのかが全然わからず、誰も教えてくれませんでしたが、だんだん「あ、こうすればあの音が出るのか」というコツみたいなのをつかんで、中学から高校の頃に、まあその快感を知ってしまったんですね。高校に入った時に、まあ今考えると親が相当に無理をしたんだと思うんですけど、入学祝いにシンセサイザーを1台だけ買ってもらいました。ローランド製のシンセサイザーなんですけど、それをずっといじり倒していたのですが、ちょうど秋葉原に「ローランドシンセサイザースタジオ」というショールームがオープンしたんです。そこに行くと、今までは独学だったんですけど、実際に使いこなせる方がたくさんいたので、そういう方に聞きながら、どんどん深みにハマっていきましたね。

実はシンセサイザーは、その頃はあまりメジャーな楽器ではなかったので、当時は中古の楽器が二束三文で売られていることにある時気が付いたんです。それで、もうとにかくアルバイトをして、多少壊れていてもいいから中古の機材を買い足していって。それでカセットテープを使って、ピンポン録音って言うんですけど、最初の音を機材で録音してから、次に違う音を重ねて別の機材で録ってっていうようなことをやりました。

高校2年生の時に、「シンセサイザーテープコンテスト」という、すごくマイナーなコンテストがあったんですけど、そこに応募したら入賞しました。今は亡き、冨田勲さんという第一人者の方がいたのですが、その方も審査委員におりまして、当時まだ高校生だったというのもあったのかもしれませんが、私の作品を全国区のラジオで放送したいというお声掛けもしていただきましたので、もう喜んでお願いしました。

そのテープは、私の母親の実家がある秋田をイメージして作ったものだったのですが、まあ今聴くとすごくショボいのですが、セミやカエルの鳴き声とか鐘の音とかが鳴って、やがて雨が降ってきて今度はヒグラシが鳴くみたいなものを、5分程度にまとめたテープを気に入っていただけたみたいですね。それで、ラジオで紹介をしていただけるということで、その時は田舎のお婆ちゃんに、「ラジオで流れるよ」と教えてあげて。今から思うと、あれが一番のお婆ちゃん孝行だったのかなあと(笑)。

で、そのコンテストに入賞したのは高校2年の時だったんですけど、1年生の時はなぜか選外だったんですけど、私の名前だけはそこに挙がっていましたね。実は、その時に作ったのが、ほかでもないゲームセンターの音でした。ドライブゲームで車が爆発する音だとか、「タラララーララ......」とかっていう、トランポリン系の何かゲームが当時ありましたよね?

Q:トランポリン系のゲームは多分、エキシディの『サーカス』のことですね。

中本:ええ。その曲みたいな音とかは、元々は全部電子音ですから、それをシンセサイザーで重ねて作ったみたいなことをやってましたね、YMOが作る1年以上前に(笑)。

Q:それはすごいですね。後にYMOが、『サーカス』と『スペースインベーダー』のサウンドを収録したレコードを出してますからね。

中本:後からゲーム音楽のレコードが出てきて、「あ、1年勝った!」みたいな(笑)。

Q:その時点で、もうゲームのサウンドに目をつけられていたのはすごいですね。

中本:YMOよりも、そこは1年早かったですね、ちゃんと証人の友人もいますので。まあこれは余談ですけどね。と、いうような感じで、やっぱり音とゲーム、電子音とかデジタルで表示される映像というものに、すごく当時としては未来を感じました。

Q:シンセサイザーのコンテストみたいなものには、主にどういった作品が応募されていたのでしょうか?やはりゲーム関連の音を、シンセサイザーで作ったものを出していた人が多かったんでしょうか?

中本:いいえ。特に多くはなかったので、むしろ、そういう音を使っていたところが注目されたみたいですね。多かったのは、クラシックとか普通のフォークソングとかの音の置き換えに、シンセサイザーを使うというパターンでした。ですので、どちらかというとシンセサイザーコンテストというよりは、むしろ楽曲コンテストだったんです。

ですから、せっかくいろいろな音が出せるんだから、「もっといろいろな音を出したほうがいいよね」って、当時は生意気にも思っていましたので、高校1年生の時はそういう電子音を重ねて、ゲームセンターを再現してみたんでんすね。逆に、2年生の時は自然の音をシンセサイザーで、何とかしてそれらしい音を作れないかなって思いながら、まあ当時としては一生懸命作ったりとか、そういうようなことをしていました。

Q:当時の秋葉原では、多少壊れた状態のシンセサイザーの値段は、だいたいどのくらいしたのでしょうか?

中本:値段はピンキリです。最初に買ってもらったものは、1音しか出せないのに確か20万円近くしましたが、中古ですと1万円程度のものもありました。それから、アナログシーケンサーと言って、8音しか音が出せないシーケンサーがあったのですが、売り値はだいたい12万円だったんですけど、中古だと5,000円だったりしたんです。

普通の人にとっては、ただそれだけがあっても使い道とかは別にないんですよ。ただ電圧が定期的な時間で繰り返し出てくるだけみたいなものなので。でも、それをアナログシンセサイザーにつないだ瞬間に、音程はともかく、いろいろな音色を自分の思ったとおりに出すとか、そういった使い道があったんです。

それから、単音を無理やり和音に聞かせるための一番簡単なテクニックは、エコーマシンを使うことなんですね。ただ、当時はテープエコーとうものしかありませんでした。ヘッドがいくつか付いたエンドレステープに同じ音を録音して、再生するポイントを少しずらすことでエコーにするみたいなものなんですけどね。今ならデジタルで簡単にできるようなことを、機械を使ってやるしかなかった時代で、値段も割と高かったんですね。

値段が高かったし、ほかにももっと欲しいものがありましたので、何とか安くできないかなと思っていたら、学校の友人が「近くにつぶれたバーがあるんだけど、そこに歌える仕組みが置いてあるから行ってみたら?」って言われたので行ってみたら、テープエコーマシンがあったんですよ。「これいくらですか?」って聞いたら、「うーん......1,000円かな」って言ったので、「おお安いな!」と買い取りました(笑)。それが何なのかを知っていれば宝になるけども、知らない人から見ればただのゴミっていうのが、昭和の時代はたくさんあったので、それを安く調達して遊んでいたんですね。ですから、知っている人から見ればすごい設備がそろってるように見えるんですけど、実はかなり安く集めていたんです。

カセットデッキとかも、壊れているものはすごく安かったですね。だけど、送り出し用で、しかもわざとモーターのスピードを変えて、回転速度を変えることでキーをいじったりとか、そうやって使うんだったら別に何でもよかったんですね。そういう用途で、テープレコーダーとかもたくさん、もうゴミみたいなものをいっぱい集めてました。

Q:そのカセットデッキとかをいじるようなご趣味は、おひとりでやられていたんですか?

中本:基本的には1人でしたが、何だか面白がって一緒に行動してくれるような友人もいました。その彼は、今でも音楽スタジオとかをやってますけど、僕はもうそういう世界とはまったく縁がない仕事をしていますけどね。

で、そんなこんなで、大学に入った後は、やっぱり、ちょっと遠いところに、東海大学というところの通信工学科っていうところに入ったんです。今は東海大学前っていうんですかね、昔は大根(おおね)、ダイコンって書く駅があって、新宿からだとすごい時間掛かるんですけど。

学生時代~データイースト入社までの経緯

Q:大根は小田急線の駅ですよね。

中本:そうです。最初の1年は頑張って通っていたんですけど、サークルに入ってからはそっちのほうがメインになってしまいました。親には勉学のためと言っていながら、実際にはサークル活動のために一人暮らしを許可していただいて、大学の近所に下宿することになりました。

で、その入ったサークルというのが、「東海大学放送制作芸術研究会」という、「TUBC」というすごい大層な名前が付いていたんですけど、その実態は割と仲良しクラブみたいなものでした。そこでやっていたのは、放送劇の制作ですね。当時は映像がそれほど主体ではなくて、複数のオープンリールテープレコーダーがあって、MCがしゃべったところに効果音とかをリアルタイムでかぶせていって、何か放送劇みたいなものを聴かせるイベントとか、あるいは完パケのものを作ったりですとか、8ミリとかを持っている一部の人が映像作品を作ったりするようなサークルでした。

そんなわけで、私はもうほとんど音響屋さんと言いますか、効果音を作ったり生録をしていたんですね。生録もとても好きで、人間をたくさん集めた映像があったので、それをリクエストに応じて編集したりですとか、あるいは元からある楽曲を「とにかく長くしてほしい」と言われた場合は、当時はテープ編集の時は物理的にテープを切ってつなげるようなこともやっていたのですが、自分はすごく得意にしていましたので、まあ、そんなことをやったりしながら、ずっとサークル活動に夢中になっていましたね。

そして、下宿をすると必ず陥るのがやはり、自分の部屋が麻雀部屋になってしまうことなんです(笑)。もう常に誰かがいる状態になっていて、卓もメインで使う卓のほかに、小さなコタツがあったので、そこをサブ卓にして遊んでいました。

Q:2卓もあったんですか?それはすごいですね。

中本:卓を2つ作って、6畳の部屋に8人、さらに順番待ちの人間が4人いて、全部で12人もいたりして。確か、卓を真っ直ぐ置けなかったので、斜めに置いてましたね。そこで、ほかの誰かにチャチャ入れてしる人がいたりするような感じで、さらに待っている人も暇をつぶせるようにとLCD、液晶のゲームも好きだったので、それも置いてありましたから、みんなで「これ面白いな」とか言って遊んでましたね。なかには奇特な友達もいて、自分の持っているLCDゲームをうちに提供してくれたりして、まあよくありがちですけど、どんどん物が増えていったんですね。「こうしてゲームもたくさん集まると、何だか面白いなあ」と。

ファミコンとかはまだなかった時代でしたが、そうやって待ち時間はLCDゲームで遊んで、自分の番になったら麻雀をして、そこで「昇級」すると、今度は隣りの卓に移れるみたいな遊び方をしてました(笑)。多分、ほかの皆さんも経験があるんじゃないかなと思いますけど、まあそんな感じでした。モノ作りもしてはいたんですけど、やっぱりそうやって人と遊ぶのがメチャクチャ楽しかったですね。

Q:大学時代、就職に関してはどのように考えていらっしゃったんですか?

中本:就職についても、何となくですが重たい仕事、堅い仕事は無理だなと思っていました。当時の通信工学科は、割とプログラマーのベースになるような話が多かったんです。通信ではあるのですが、どちらかと言えばデジタル技術のプロトコルとか、言語がどうだとか言っていて、まだ当時はFORTRANとかCOBOLとか、今では全然聞かないような言語とか、BASICなんかもありましたね。

個人的にはやっぱり、人を楽しませる仕事がしたいなあと。ですから、例えば玩具会社でデジタル技術を応用したものとか、あるいはズバリ、ビデオゲームとか、そういうものを作りたいなと就職課に相談をしたら、任天堂を紹介されたんです。今思うと、人生で最大の選択ミスだと思うんですけど(笑)、「任天堂ってどこの会社?京都なんて行けないよ......」みたいな感じで、どこか都内にある会社はないものかって調べていたら、ちょうどデータイーストの社長が東海大、しかも同じ学科の卒業生だったことがわかったんです。最初はもちろん、社長とは面識も接点も全然ありませんでしたが、「じゃあ、会社見学でもしてみようかな」みたいな軽いノリで行きました。で、見学に行ったら、なぜか帰る時には内定が出ていたんですよ。当時は、本当に緩い時代だったんだなあって思いますけどね。

ちょっと話が前後しますが、ゲームセンターということで言いますと、昔は練馬からだと「としまえん」のほかに遊びに行く所というのは、もう池袋くらいしかなかったんですよ。高校時代に、池袋にサンシャインシティがちょうど出来まして、その地下に確かゴリラっていう名前だったと思いますが、ゴリラの表情が動く大きなオブジェが置いてある、巨大なゲームセンターがあったんです。今は多分、トイザらスに変わっていると思いますけど、そこにすごく大きなゲームセンターがあったんです。

高校は東京電機大高校でしたので、学校帰りに後楽園駅から池袋まで地下鉄に乗ってから友人と遊んで、それぞれ散り散りに帰っていくという感じで、その遊びのコースの中にサンシャインシティ、ゲームセンターですとか、楽器好きだったのでヤマハのライトミュージックのセクションであるとか、そういう所を歩き回っていました。元々『スペースインベーダー』が好きでしたので、「『スペースインベーダーパートII』っていうのが出たらしいぞ」という話を聞いて、それを見に行ったりとかしていましたね。

大学に入ってからもゲームセンターで遊びましたし、あるいは喫茶店にもテーブル筐体が当たり前に置いてあった時代でした。『ジャンピューター』とか、『ゼビウス』なども結構遊んでいましたし、じゃあゲームセンターの仕事ができるんだったら、ここでいいんじゃないかなということで、データイーストへの入社を決めました。

Q:もうひとつ、話が前後して申し訳ないのですが、中本さんがゲームミュージックの作曲ができるほどの音楽の素養を身に付けておられたのは、やはり学生時代のシンセいじりがきっかけだったのでしょうか?

中本:そうですね。曲を作るということでお話をしますと、私の場合は中学の時にフォークギターを始めたんですね。最初は誰でも、実際にレコードとかテレビとかに合わせて演奏したいなって考えると思うんですけど、知ってるコードだけでは当然キーが合わないんですね。難しいコードは初めのうちは押さえられないので、いわゆるC系やG系とかに限られちゃうんですけど、カポタストというキーを変更できる器具と初めて出会った時に、「ああ、音楽っていろんな調があるけど、実はこれをズラしていったら基本は1種類しかないんだ」っていうことに、まあ当たり前の話なんですけど気が付いたんですね。

「と、いうことは、カポタストの位置を変えれば、どんな曲でもキーを合わせて弾けるハズだ」と、気付いてからいろんな曲を弾いているうちに、「ある程度のコード進行、曲の流れの構成って、ほぼ一緒じゃん。パターン化されてるんだな」ということがだんだんわかってきまして、「なんだ、これって簡単じゃん。自分できる」って思っちゃったんですね。まだ生意気なガキでしたから(笑)。

それで、「曲なんて、自分でいくらでも作れるじゃん」と思っちゃいまして、友達が書いた詩とかに曲を勝手にくっ付けて、弾いて聞かせると「おお、いいね!」みたいに喜んでもったりして。そうすると自分でもうれしくて、どんどん曲を作るようになったんですね。

Q:なるほど、コード進行から作曲のコツをつかんだわけですね。

中本:「音楽って難しそうで、実は簡単じゃん」みたいな、もうナメまくったところから曲作りを始めたんです。高校時代は、自分でシンセの作品もちょっと作りましたが、それよりは音作りのほうを中心にやっていましたね。大学に入ってから、曲作りをまたやるようにはなりましたが、まさか入社後も曲作りをするなんてまったく思わなかったです。

Q:後に、データイーストへ同期で入社することになる、同じく東海大出身の吉田博昭さんとは、在学中に音楽サークルで一緒に活動などをされていたのでしょうか?

中本:いいえ、違います。彼は本格的な、軽音だったかジャズ研だったか忘れちゃいましたが、ちゃんとした音楽系のサークルに入っていましたね。私は逆に、大学に入る頃には自分程度の人間と、音楽の最先端にいる人とのレベルの差はもうわかっていましたので、もし自分がやるなら音楽じゃなくて音作り、サウンドクリエイターのほうだと思っていました。もっとも、まだ当時はそんな仕事はなかったんですけど、イベントの効果音だけ作るとか、「そういう仕事ができるかなもな」ぐらいには思っていました。彼は本格派ですが、私は邪道ですね(笑)。

Q:吉田さんはギターがお得意でしたから、後にデータイーストのゲームミュージックバンド、「ゲーマデリック」のメンバーにもなりましたよね。

中本:そうですね。本当にプロだし、今でも演奏をしていますよね。私もバンドをやっていたことがありましたが、ほとんどシンセサイザーを「飛び道具」として使う専門の、ほかのバンドじゃ出ない音をその場で出して、「おお、すげー!」って思わせる、ただそれだけのためにいるような役でした。YMOの松武秀樹さんのように、あぜあの人いるのかわかんないんだけど、実はすごい音を出してるみたいな。

ですから、高校からキーボードを始めるようなありさまだったので、演出技術とかも全然なかったですね。しかも、真面目に努力するのが苦手なタイプでしたし、いつも楽をしてできないかなあと考えてばかりいました。大学時代にやっていたバンドでも、すごく真剣そうにやってはいるんだけど、実はシーケンサーをただ使っただけで、でもそれでもいいや、何かカッコイイし、それだけでもまあいけるみたいな(笑)。なので、事情を知っている人から見れば、もうプッて笑われるようなレベルでしたから、彼とは全然次元が違うっていうことぐらいはさすがにわきまえていましたね。

データイースト入社当時の社内環境・業務内容

Q:先程もお話がありましたが、データイーストの福田社長も東海大卒ということで、社内にはある種の東海大学閥みたいなものがあったようですね。

中本:そうですね。確かに、それはあったかもしれないですね。私は大学時代のゼミで文字認識の研究をやっていまして、その文字認識のスポンサー企業として、当時は意識していなかったんですけど、後でデータイーストと共同研究をしていたことに気が付きました。そこには女性の方と怖そうな男の人がいたのですが、後に自分の同僚や上司になるとは思いもよらなかったですね。世の中は狭いと言いますか、わざわざ自分が狭い所に行ったのかはわかりませんが、おっしゃるとおりでそういうものが確かにありましたね。

Q:1983年にファミリーコンピュータが発売されましたが、就職されたのはファミコンが出た後にあるんですか?

中本:はい。私が入社したのは85年です。

Q:ファミリーコンピュータを初めて見た時は、何かショックを受けたりとかしたのでしょうか?

中本:はい。順番がすごく前後しちゃいますけど、それまでの家庭用ゲーム機はエポック社が出したような、ただピッとしか音が鳴らないような、すごくシンプルなものという認識しかなかったんです。それが、データイーストに就職が決まった時に、今のカミさんがお祝いにファミコンをプレゼントしてくれて、最初は「まあ家庭用でしょ?」みたいに思っていたのですが、あの土管しかなかった頃の最初の『マリオブラザーズ』を遊んだら、目からうろこが落ちました。「えっ、何で家庭用でこんなことができるの?これ1万円ちょっとでしょ?業務用だと50万円くらいするのに、何だこれ!」って、すごい衝撃を受けましたね。

最初のソフトと本体はカミさんが買ってくれたんですけど、その後はもう食い入るように、会社に入ってからもファミコンには没頭しましたね。逆に、ファミコンと同じようなことはほかでもやっていたのに、なんでファミコンに追い付けないんだろうとも思いましたね。同じくらいの値段、なぜこんなにも動きが違うのかなって。描画の機能が全然違う、ほかとは考え方がそもそも違うっていうことに気付けば、まあ簡単なことではあるのですが、金額に対するパフォーマンスとかが、何で任天堂のほうがこんなに優れてるんだろうって思いました。就職する時に、何で任天堂を受けなかったんだろうという後悔がそこから始まったのですが(笑)、「その場にいたら、何かそこで楽しまなくちゃ派」でしたので、まあ別に問題はなかったですけどね。

データイーストに入った頃は、私の担当は業務用のハードウェアだったんですね。ゲームを作りたいけども、具体的に何をやりたいのか、特に表明した覚えがなかったので、もう自動的にハードウェアの担当になりました。それが明らかになるのは、卒業してから入社するまでの間に、「アルバイトに来ないか?」っていう連絡が来た時でしたね。これ、今考えるとひどいですよね、就職先から「アルバイトに来い」って言われたら、断れるハズがないですよね?それで、アルバイトに行くことになりまして、作業着を着てハンダ付けをしたりとか、難しい顔をして全然わからない図面とかを見てる人がいたりとか、まあハードウェアだから設計とか試作をしている部署だから当然なんですけど、そこでとにかくハンダ付けをたくさんやれみたいな感じでした。

今はブレッドボードにピンを挿すだけで試作品が作れますけど、当時はユニバーサル基板にラッピングポストというピンをいちいち立てて、素子1個ずつから引き出したものを、ラッパーと言って針金をハンダ付けしないでクルクル巻いてつないでいく仕組みのブレッドボードを作っていたんです。そこで、その基礎となるハンダ付けを、「ハードウェアをやるにあたって、まずはできなくちゃいけない」みたいなことを言われましたね。

電気工作は小学校からずっとやっていましたから、実は難なくそれをこなしてしまったんです。おそらく、そこで先輩が私に何か指導するハズだったんでしょうね。でも、特に指導することがなかったので、「じゃあ、これも作って」って言われたりして、自分の仕事が増えちゃったんです、「工場かよ!」みたいな感じで(笑)。まあ後々、大しっぺ返しを食らうことになるんですが、そういったこともあってハードウェア担当になりました。

ただ、私はどちらかと言えばアナログの電子工作を中心にやっていたので、こちらはある程度の心得はありましたが、仕事のほうは完全にデジタルだったんです。アナログで出てくるのは、ノイズ防止のバスコンデンサとか、あとはオーディオ回路くらいしかありませんでした。音を出す部分はアナログ部品が必要なのですが、それ以外はもう完全にびっしり、あのゲジゲジがずらっと並んでいるんですね。しかも、それが当時はLSシリーズと言う、テキサスインスツルメンツ社の規定したロジックICを組み合わせて、すべてのゲームを作っていました。さらにコピー防止のために、その一部を各社が独自のカスタムチップを開発するという時代だったと思います。

設計ができようになるためには、デジタルICにはどういう機能があって、どんな種類があるのかを何十種類、何百種類も暗記して、ソラで出てくるようにしなくちゃいけないんです。もう頭の中が、ずっと「0101......」みたいな感じになってましたね。そんなところからスタートして、ハードウェアの先輩が設計したものを実験して、設計どおりに動かない部分をちゃんと動くように調整することが入社後のOJTで、まずはずっとそこで教わりながら、基板を作っていくっていうような部署に配属されました。

Q:当時のアーケード基板は、カセットテープを使用した、いわゆるデコカセシステムを改造したようなものだったのでしょうか?

中本:いいえ。当時は、もうそのトレンドがほぼ終わっていました。むしろデコカセをROM、基板化したほうがこれからは売れるだろうという時代でした。デコカセだと、やっぱりメンテナンスがすごく大変だったりしますので。

Q:デコカセ基板は、カセットテープを使ってデータを読み書きする仕組みでしたよね。

中本:そうなんですよ。しかもマイクロカセットだったので、発想自体はかなり先を行っていたとは思いますが、耐久性に問題があったんです。そこはやっぱりデータイーストらしく、どこかがちょっと残念で、まあその残念具合が好きだったんですけどね(笑)。

Q:85年の入社ですから、その頃のアーケードゲームですと、吉田さんがBGMを作曲した、『魔境戦士』とかの基板の設計を中本さんが担当したのでしょうか?

中本:それは、もうちょっと後の時代ですね。彼は当時、全然ゲームとは別のセクションに入っていて、確かFAXとかを扱う新規事業部という所に配属されていたと思います。後に、「ゲーム主体で行くぞ」って会社がなった時に統合されて、彼がサウンドのほうにやってきたっていう感じですね。

Q:1985年当時の、ファミコンとかの家庭用ゲームがいろいろと出てきた日本のゲーム産業において、データイーストはどのような立ち位置だったと思われますか?

中本:当時は、まさに転換期だったのかなと思います。と、申しますのは、まずひとつ目はデコカセットシステムが終わりを告げて衰退期に入り、おそらく基板は他社のほうが進んでいたと思います。当時はまだ6809とかをCPUに使っていた時代に、ナムコさんではもう『リブルラブル』に68000を使っていましたし、セガさんでも使っていましたよね。ウチが68000を使うのは、そこからだいぶ遅れていましたので、ハードウェアで基板を売るのは多分後追いになってしまいました。デコカセシステムが、ある程度の幅を利かせていた時は良かったんですけど、その次の手を打つのが若干遅れたのかなっていう印象はありますね。

逆に、「ファミコンは面白いらしい」ということはキャッチアップしていたらしくて、私が入社した時にいくつかあったプロジェクトの中のひとつで、ファミコンのデバッガー基板を作っていました。それは何かと言いますと、ファミコンの実際の基板がブレッドボードに取り付けてあって、CPU部分を6502にして、その6502のICEと呼ばれる、CPUの代わりをしながらプログラムの調整とかをできる装置がありました。おそらく、どこの会社でもインサーキットエミュレーター、つまりICEを使って開発していたと思いますが、それのファミコン用を開発していました。

ただ問題があったのは、その6502がそのまま載っているわけではなくて、ファミコンのCPU自体に、これは有名な話なんですけども音源も載っていて、その部分のエミュレートはできないので、音をエミュレートするためにはまた別のシステムが必要でした。ウチのサウンドドライバーが他社よりもすごく遅れてしまったのは、これが理由だったんですね。で、その6502のエミュレーターからファミコンのソフトを作るようなデバッグ機は、私がアルバイトを始めた頃にはもう出来上がっていて、開発がスタートしていました。その後、実際に「ファミコン用ソフトを出すぞ」って聞くまでの間は、しばらく時間がありました。多分、研究期間があったんだと思います。その当時は、私はそんな動きには全然気付かず、後にして思えば、ああそうだったなというお話ですね。

個人的には、会社では業務用を作っているけども、「心はファミコンだぜ」みたいな感じで、自分はもっぱらファミコン用ソフトですとか、ファミコン以外の家庭用ゲーム機に没頭していました。その当時はファミコンと、それ以外のものとの差を、さかのぼって調べるのが大好きだったんですね。何でこっちは動くんだろう、こっちはうまくいったんだろうとか、「コントローラーは、こっちだと使いやすいのに、あっちのほうはなぜこの形にしたんだろう?」とか、そういうことを調べるのが個人的に大好きだったので、給料はほとんどファミコン関係につぎ込んでいました。今思うと、本当にバカみたいですよね(笑)。

そんな時期に、「データイーストでもファミコン用ソフトを作るぜ」っていう話になった時は、小躍りするほど喜びました。しかも、自分はハードウェア担当だから全然関係ないんですけど、「ウチの会社でも作るようになったんだから、まあいいや。その代わり、変なものは出すなよ」とは思っていたんですけど、最初から変なものばっかり出し始めたんですよ。「えーっ!これを出すんだったら、音とかをもうちょっとこういうふうにするべきできでしょう」とか、まだ入社したばかりで怖いものなしでしたから、もう文句を言いまくりで、先輩から「こっちへ来い!」って言われるような人の前でも発言しちゃったらしくて。

まあ、最終的には同じ船に乗ることになる先輩だったんですけどね。「お前、新入りのくせに口を出すんじゃねえ!」とか、「余計なことを言ってんじゃねえよ!」みたいな感じだったんですけど、まあバカだったのでハードウェアを作っている脇から気にせずに言ってたら、「じゃあ、そんなに好きならお前がファミコンをやれ!」みたいな形になりました。

それで、「一番の問題は何だ?」って聞かれたので、「はい、音です!うちの音はひど過ぎます!」って、サウンドチームがいるのに言っていました。当時はもうFM音源がアーケード用の基板に載るのは当たり前でしたし、FM音源を使えばいろいろな音が出せますから、作り手としても面白いわけですよね。でも、ファミコンの音は研究もしないくせに、「ー、あれって1音しか出ないからつまんないよ......」みたいな感じでしたね。でも、「違うよ、1種類じゃないから!」というのをわかってもらうために、ファミリーベーシックを会社に買ってもいいですかって聞いたら、「安いからいいよ」って言われたので、それを使っていろいろな音色がファミコンでも出せることを実証したんです。それまでは、いろんな音が出せる信じてもらえなかったので、まずはそんなところから切り崩していったんですね。

当時は先程もお話したように、サウンド用のデバッガーっていうのがなかなか難しかったんです。ICEのほかにもCPUのサウンド部分を動かすようなものも作らなくてはいけなかったりするので、すごく装置が不安定なんですね。装置は3号機だったか、4号機くらいまであったんですけど、それぞれの機械ごとに音が違ったり、安定性も違っていましたので、音作りをする人間が自分のお気に入りの機械を奪い合うようにして使っていましたね。デジタルなのに、何でそんなアナログみたいな状態になるんだろうなあと。サウンドの担当が機械を奪い合うような悲しい状況になったのは、実はこういう理由があったからなんです。

ファミコン用ソフトの開発部署に異動BGMの作曲や音質の向上にも貢献

Q:ファミコン用ソフトの開発をする部署に移られたのは、だいたいいつ頃ですか?

中本:ちょうど、『バギーポッパー』を開発していた頃なので、その発売のちょっと前くらいだと思います。

Q:こちらの手元の資料によれば、『バギーポッパー』の発売日が86年10月8日ですね。

中本:そうしますと、入ってから1年ちょっとで、もうファミコンの開発のほうに異動していたということでしょうね。

Q:それから、データイーストのファミコン参入第1弾となった『B-ウイング』は、発売日が86年の6月3日でした。

中本:そうですね。私が口出しを始めたのが、まさに『B-ウイング』でした。その前には『バーガータイム』ですとか、ナムコさん側のOEM枠を比較的有利に使わせていただいていまして、当時のデータイーストはナムコさんと仲が良かったので、「ナムコット」ブランドでデータイーストのタイトルをいくつか出させていただいてました。その頃は、私が全然知らない間に製品ができていましたので、それに対していろいろ文句を言っていたら、今度は自分がやらされるようになったという流れでしたね。

Q:自社製ファミコンソフトの音の、どの辺りが気に入らなかったのでしょうか?例えば『B-ウイング』であれば、具体的に音のどんな部分をもっとよくできると思ったのでしょうか?

中本:ファミコンの音色には、矩形波というものが2個使われていて、あとはノイズが1個あって、矩形波とノイズの出し方によっていろいろな音を出すことができるんです。具体的には、デューティ比と言う矩形波の比率がありまして、例えば比率が50%対50%だと普通のポーッという音が鳴るんですけども、その立ち上げ方や揺らし方次第で、木管楽器風の音を鳴らすことができるんですね。

そのデューティ比を狭めると、パルス波という形になるんですが、そうするとポーッという音が、ジーッていう感じの音になって、シンセサイザーで言うところのパルス波が一番ドンピシャなんですけど、ノコギリ波という割と弦楽器とかに近い音色に近付けたりすることができるんです。そのパルスワイズを変化させることによって、ポーとジーの間のフワフワした感じの音に変わるので、1音だけでもちょっと厚みの変わった音が出せるようになるんです。ですので、そのパラメーターをちょっとでも自由に動かせるようにするだけで、表現力がまったく変わってくるんです。

ところが、当時のドライバーの制作者は、「それができるのに、ただみんなが使っていないだけだよ」って言い張っていたんです。そこで調べてみたら、設定をいくら変えても常にデューティ比を固定した音、つまり1種類の音しか出せなくなるバグがあって、そのバグが残ったまま製品を出していたことがわかったんです。もう「おいおい」って感じで......。でも、たまたまその頃に出したゲームは、古いアーケードからの移植だったので、元々それほど豊かな音色ではなかったんです。PSGという、プログラマブルサウンドジェネレーターっていう名前が付いていた音源を使った、矩形波とかが3種類とノイズしか出せない、ファミコンより若干劣るような音源が当たり前の時代の古いゲームでしたので、そのまま出してもだいたい済んじゃってはいたんですけどね。

『B-ウイング』の頃になると、オリジナルの楽曲を入れることになったので、そこでたまたま、「人手が足りない。業務用が忙しくて、家庭用の人も足りなくて、お前も作曲ができるんだったら作れ」みたいなことを言われて作らされたのが、まさにその『B-ウイング』の曲でした。出だしに流れる短いファンファーレ的な曲を私が作って、その後にも長い曲が続くんですけど、長いほうの曲は先輩が作っていて、そのファンファーレ的なものですとか、短い曲はほとんど私が作りました。メインで作曲をされていたのは、原あづささんという、もうお亡くなりになった女性の方なんですけど、割とフォーク畑のメロディメーカーな方でしたね。

Q:その原さんは、アーケード版の『B-ウイング』の曲も作っていたんですか?

中本:いいえ。アーケード版には、曲がほとんどなかったんですよ。

Q:確か、プレイ中はズズズッという低音だけが鳴っているようなゲームでしたよね。

中本:そうです。「それだと、色気がないから」ということで、私のところに発注が来ました。サウンドチームは業務用で忙しくて、もう家庭用まではやっていられないから、「お前、できるんだったらやれ」みたいな感じで借り出されました。

Q:そういう経緯があったんですね。ファミコン版の『B-ウイング』は、電源を入れるといきなり軽やかなBGMが流れるようになっていましたよね?初めて遊んだ時に、アーケード版とは曲が全然違っていたのでびっくりした記憶があります。

中本:ええ。その軽やかな曲とか、「チャンチャーンチャンチャン......」ていう、晴れた空の曲みたいなものとかが入っていましたが、何だか全然画面に合っていない曲だなあって個人的には思ってたんですけど(笑)、まあ爽やかなものであればいいだろうなと。

Q:タイトル画面の曲は、確かテレビCMにも使われていましたよね。

中本:はい、使ってました。もうそれしか曲がなかったので、人も曲も全部有りものでやるしかなかったんです。で、その時に「デューティ比とかを変えると、もっといい音が出せるよ」っていうことを、やっと聞き入れてもらえました。その後、『バギーポッパー』では長い曲とかも作るようになったんですけど、この頃から音色をある程度は選べるようになりました。そこで、実はステージごとに作曲者を変えて、曲調とかも変わるような工夫をしていました。それぞれの代表作を知っている人であれば、どの曲を誰が作曲したのかを聴いて当てることができるみたいな、そんなマニアックな遊び方も実はできるんです(笑)。

Q:当時のサウンドチームは、だいたい何名くらいいたのでしょうか?

中本:当時は混成部隊のような状態でしたので、確か私を入れて5人、そのうち4人が業務用の担当でした。

Q:先程、デューティ比とか波形とかのお話が出ましたけど、そういう概念は、当時から、そういうキーワードとセットで理解して提案していたんですか?

中本:はい。シンセサイザーをやっている時には、まさにそこが肝だったんです。なので、シンセサイザーのことを本当にわかっている人は、すぐに理解してくれました。今、私がお話したのと同じことを、当時の社内でも説明をしていたんです。プログラマーであれば、デューティ比のことはわかってくれたんですけど、音のことがわからない。音楽をやっている人は、デューティ比って言われてもおそらくわからない。じゃあ、せめて「矩形波の音とか、三角波の音ってこうだよね?」という話をしてもなかなか通じなかったので、「もう現物を見せるしかないな」ということになったんですね。

Q:その知識のセットと言いますか、そういうものはどこから学んだんですか?シンセサイザーの雑誌とか、大学とかで勉強をされたのでしょうか?

中本:それはやっぱり、基本的には雑誌ですね。雑誌を見て、自分でも何かをやってみるというのがすごく好きだったので、シンセサイザーも「シンセサイザーから音を出してみよう」みたいな本があったので読んでいました。その本が出たのは多分、大学に入ってからだと思います。それから全然関係ないんですけど、BCLとかも大好きでしたので、あの山田耕嗣先生の、シート付きのBCL入門みたいな本とかも読んでいましたね。

Q:サウンドチームの方々は、元々どういうことをやられていた方なんですか?と、言いますのは、まだ当時はゲーム産業が立ち上がったばかりで、みなさんゲームを元々やられていたわけではなかったのではないかと思っているのですが、どういう方がサウンドチームにいらっしゃったんですか?

中本:当時のサウンドにいた人間は、やはりFM音源を使える人ですとか、作曲ができる人ですとか、「ズバリ、こういうことができる人は来てください」っていう、かなりニッチな募集をしてから入っていたと思いまです。おそらくですが、まだFM音源とかが出ていなかったPSGの頃は、プログラマーとかデザイナーとか全然違う方がやっていて、専門職ができ始めたのは、多分FM音源とかが出始めた頃からではないかと思います。ただ、その大元のところに関しては多分、私の先輩の世代なので、ちょっとわからないですね。

ファミコンに関しては、元々の音屋さんは業務用の仕事ばっかりやっていましたので、ファミコンのほうはどうしても低く、下に見られる傾向がありました。おそらく、会社がなくなる直前までずっとそうだったと思います。業務用はあくまで、コンシューマーとかが目指す「高み」である必要があり、その後を追ってくるのがコンシューマーだっていう流れがやっぱりありましたね。

私はそこには大きく異を唱えたかったのですが、当時の自分には音楽性が一番欠けていました。多くの作曲者や、音を作る人を見たうえで、「本当に、ちゃんと音楽をやってる人を入れてください」ってお願いしました。音を作るのはきっと誰でも教えられるけど、曲作り、しかも限られた音の中で作るのは、きっと限界があるだろうなと。私は『ヘラクレスの栄光』とか、『ペナントリーグホームランナイター』の楽曲をすべて受け持つという責任を負った時に、もう逃げ出したいくらいのいろいろな曲をゲームごとに作らなくてはいけなかったので、楽しみながらもかなり厳しい思いをしました。ですから、これをずっと続けるのは無理だろうなと早々に思いましたね。

そこで、「本格的な音屋さんを採用してもらえませんか?」と、当時の上司とかに掛け合ったら、「いいよ」と言っていただけました。ちょうどファミコンが上り調子で、売れ行きも予想より高かったりしたので、もうどんどん作ろうぜという勢いがありました。当時はほかのどの会社さんも同じだったと思いますが、「じゃあ、これからはコンシューマー中心でやろう」と。当時のデータイーストは、みなさんもよくご存知かと思いますが、ガスマスクとかシイタケ栽培とか、いろいろな事業をやっていたんです。

Q:シイタケとは、キノコのシイタケのことですよね?後々有名になりましたが。

中本:そうです。キノコのシイタケの栽培ですね。社長が、「いつまでゲームで食えるのかがわからないから、ほかにも食えるようになる柱を立てるんだ」と言いながらやってはいたんですけど。まあそれ自体は別にいいのですが、方向性が違い過ぎるのではないかなあと。柱は柱でも、もうちょっとゲームに近いものを立てたほうがいいだろうということに、社長も気付いたんですね。

ファミコンがまだ柱になるとは思ってなかったのかもしれないんですけど、ほかの事業を全部畳んで、ゲーム1本っていう時に、音楽性も当時から元々持っていった吉田さんが業務用のチームに来て、家庭用のほうは、今はHAL研究所とかで頑張っている酒井さんとか、それから濱田さんや高濱さんとかもそうですが、デモ曲とかを聞かせてもらって、「もう全然、それでオーケーじゃん」みたいな感じで採って、専門家のサウンドチームを作りました。

酒井さんはとてもできる方で、人のマネジメントや、別の人が作った曲のマネジメントとかもできましたので、「よし、これでもうオーケーだぜ」みたいな感じになってた時に、逆に私はどんどん企画のほうに、ゲーム企画の立ち上げのところを見なくちゃいけないという立場に、職種が変わっていきました。

それなのに、「ちょっと、お前に作ってほしい」みたいなことを言われて、「ええ、じゃあやりますよ」って言って作ったのが、『ペナントリーグホームランナイター』の曲でした。その時は、もうサウンドチームがちゃんとできていたので、そこでやればよかったんですけど、それがサウンドとしては最後の仕事で、全曲担当しましたね。

Q:中本さんがサウンドの制作だけを担当していた頃は、例えば『バギーポッパー』の時には、最初の企画会議とかにも参加されていたんですか?

中本:元々ファミコン好きでしたので、「この企画は、家庭用としてはどうなんだ?」といった意見を求められることがすごく多かったので、よく口出しはしていましたね。遊んでいる最中に、裏技とかを見つけた時はすごく嬉しいですから、「これには裏技を必ず入れようね」みたいなことを言っていました。

Q:確かに、データイーストのファミコン用ソフトには、隠しキャラとか裏技がたくさん入っていましたね。最初の『B-ウイング』の頃から、ずっとそんな印象があります。

中本:ええ。すみません、まさにそれは私のせいですね(笑)。裏技があると、やっぱりみなさんうれしがったりしますので。

Q:『B-ウイング』ですと、例えば隠しウイングとか、隠れキャラの「VOLマーク」とかがありましたよね?

Q:はい。よくご存知で。これって、もう本当にマニアじゃないと知らないと思いますけど。

Q:それから、『バギーポッパー』では他車を1台もクラッシュさせないでクリアすると隠しボーナス得点が加算されたりとか、元のアーケード版の『バーニンラバー』にもなかったフィーチャーが入ったりしていましたよね?

中本:ええ、そうなんですよ。何だか、鳥肌が立ちますね。気付いてくれない人のほうが圧倒的に多いので。

Q:当時は『ファミマガ』ですとか、ファミコン専門誌の裏技コーナーにだいたい掲載されていましたので、当時のプレイヤーはそれを読みながら遊んでいましたよね。

中本:ありがとうございます。で、今度は企画のほうに回ったのですが、ただ企画だけを見ていればいいといういうわけではありませんでした。やっぱり、金の匂いがする所には人が集まってくるのは今も昔も変わらなくて、持ち込み企画も増えていきましたね。「こういうのを出したい」とか「こういうのはどうか?」とか、あるいは「うちを使ってくれないか?」とか、要はプログラムの外注をします、企画を出しますとか、そういう持ち込みがたくさん来るようになりましたので、私がいろいろな所へ見に行ったり、発掘をしたりしていました。やっぱり、だんだんラインが足りなくなってくる状況にはなっていましたので、そういうこともだいぶ増えていきましたね。

ファミコン名人としてテレビに出演、企画や外注管理も担当

Q:ハードウェアから始まって、サウンドの次は企画、それから外注のほうも見られていて、本当にいろいろな業務をご経験されたんですね。

中本:そうですね。それから、これも以前に何度かお話をしたことがありますけど、別に副業というわけではありませんが、元々は放送劇とか番組作りが得意でしたので、もう今ではほとんどないと思いますけど、当時はゲームソフトの説明書とかに書いてある番号に電話を掛けると、最新情報が聞けるようなテレフォンサービスがあったんです。最初は営業のほうで作り始めたのですが、あまりにも出来がひどくて大笑いしちゃいましたので、「じゃあ、そんなに笑うなら、お前が作ってみろ」って言われたんです。

Q:確かに、ファミコンブームの時代はいろいろなメーカーがテレフォンサービスをやっていましたよね。

中本:何だかうちの会社って、きっかけになるのが全部このパターンですよね(笑)。「そんなに言うならお前がやれ」っていう会社だったので、「じゃあやりますよ」と言って、試しに1本作ってそれを聞かせたら、「これだ!」みたいなことを言われまして。それで、全然お金が出なかったので、自宅にしか必要な機材がありませんでしたから、自分の機材で多重録音とか効果音とか曲とかを、新作が出るたびに作るっていました。ナレーションも含めて、もう全部自分でやるしかなかったので、夜中なのにテンションをめちゃくちゃ上げてしゃべっていましたね。

Q:それが後に「中本名人」、あるいは「中本博士」というキャラクターが出来るきっかけになってしまったわけですね。

中本:はい。結局、そういうことになっちゃいましたね。「そういうのができるんだったら」ということで、当時は私の先輩である企画の人間が「博士」としてテレビに出ていたんですけど、何だかモゴモゴしゃべっていたり、モジモジしていてテレビ映りがもうダメで......「中沢博士」っていう初代の博士なんですけど。その後、じゃあ元気で生きの良い人間にやらせようっていうことで、「小林博士」に変わって、彼は僕の同期で、後に『ペナントリーグホームランナイター』のプログラマーをやることになるんですけど、彼が2代目博士として出るようになったんです。でも、何かしっくりこなかったみたいで、その後の3代目として私が起用されるっていうことになって、なぜかそれがしばらく続いてしまったという、そんな流れでした。

Q:当時、中本さんはテレビ番組の「ファミっ子大作戦」にご出演されていましたよね。

中本:あの頃は、かなりバカなことをさせられましたね。なんか、バイクで子供の所に行って、「博士の家庭訪問」みたいことをやらされたりして、「ポーズをとりながら走ってください」とか言われながら子供の家まで行って、それって道交法違反なんじゃないのと思うんですけど、子供にゲームの遊び方を教えて、「じゃあね!」みたいなことを言ったりして、「何だこれ、こんなことまで仕事でやるのか」って(笑)。でも、まあやる以上は中途半端にやるのは嫌だったので、もうノリノリでやるしかないっていう感じでした。

Q:すると、当時の会社にはかなりお金があったんですね。「ファミっ子大作戦」のスポンサーになって、テレビCMも作って流していましたので。

中本:多分その時は、結構あったんじゃないですかね。そんなことをやっていた頃に、個人的にすごくよかったのが、多くのメーカーの方と接点ができたことでした。ほかのメーカーは営業とか、広報関係の方が博士をやっていたんですけど、私と同じように開発だったのが、バンダイの神谷春輝さんという、橋本名人のサブ名人的なポジションのような方でした。

Q:ハドソンの高橋名人をはじめ、あの時代は各メーカーの営業や広報担当の社員が名人を名乗っていましたよね。

中本:ええ。バンダイの神谷名人は開発畑で外注管理とかをしていまして、自社開発というよりは、ほとんど外にお願いすることが多かったらしいですね。それで、「内製だとこうだけど、外製だとこういう苦労があるよね」みたいな、開発の真面目な話や悩みとか、動かないプログラムはどうしたら動くのかとか、そんな話をしているうちに、意気投合して仕事が終わった後にも時々会うようになったんです。ある日、ゲームショーに行った時にばったり会って、「何か一緒にやろうか」という話をしたのがきっかけでできたのが、『大怪獣デブラス』というファミコンソフトでした。

ちょうど当時は、『メタルマックス』というゲームも作っていましたが、これも持ち込み企画でしたね。そういう企画もあるんだけど、ウチはウチで『ヘラクレスの栄光』っていうのが別であったんですけども、「変なゲームを出せるメーカー」と業界内では認識されていたみたいで、それで竜とかが出てこない、戦車のRPGというコンセプトは会社にも合うということもあり、『メタルマックス』の製作が決まったんです。『メタルマックス』は、当時の営業部長がお墨付きのプロジェクトで、予算もかなり使って作っていて、一方で私のほうは、いわば知人と作っているようなゲームでしたので、その半分以下の予算ももらえないなかで、もう見返してやろうみたいな感じで作っていたのですが、結果的には巨大資本には勝てず、あっちのほうが売れちゃったんですけどね。

Q:会社をまたいでゲームを作っていたんですね。

中本:この時は、神谷さんの決意がもう素晴らしくて、バンダイをお辞めになって、独自に会社を興されてから作ったんです。今考えてみると、とんでもないことしたなと。いまだにつき合いもあるし、そこは別に恨まれてはいませんけどね。その時は、「『メタルマックス』はこんなにお金をもらって、こんなに良い待遇で開発ができるのに、何でこっちはできないんだ」みたいなことを言われつつも、「わかってる、わかってるよ。あっちは船頭が多いから、絶対に予定どおりにリリースできないよ。こっちが先に出して、売上で見返してやろうぜ」なんてことを言いいながら作ってたんですね。

だけど、どうしても宣伝費とかをかけてもらえないし、一部には好評で今でもファンだって言ってくださる方もいらっしゃるんですけど、そんなに売れなかったんです。そんななか、それをリリースし終わった時に、会社から出た私への辞令がとても残酷なもので、「その『メタルマックス』をどうにかせい」っていうものでした。もう全然進まず、リリースの目処も立たなくなっていたのを、「なんとかしろ」って言われたんですね。私からすればかなり敵視していたプロジェクトでしたが、このままでは会社が困っちゃうようなことでしたし、そこは神谷さんに後々恨まれることになってでも、『メタルマックス』を進めなくちゃいけないと。

ただ、正直楽だったのは、言わば別の人のものだったので、進行させるためにはたとえ大事なものでも容赦なく切ることができました。「このシナリオ、このマップがないと進まない」って言ってきても、「ここはこうしたらいいじゃないですか。じゃあカット」みたいな感じで、バサバサ切っちゃったんです。「とにかく出さないことには、もう後がない。逆に、古くなればなるほど鮮度が落ちて、すごく良いものができたとしても売れなくなったら、ブームが過ぎたら終わりだよ」って当時よく言ってましたね。

ネタが世の中に出てから、あまりにも時間が経っているっていうことを、当時の宮岡さんや桝田さんに一生懸命直訴しながら、メーカーの弱い立場から言い、何とかそこは同意していただいて、多分すごく不満はあったと思うんですけど一作目をリリースすることができたんです。それが、そこそこ売れて手応えがあったっていうことで、すぐ続編の話が出て、『メタルマックス2』の開発には最初から入ることになりました。

Q:「メタルマックス」の、「竜退治はもうあきた。」という有名なキャッチコピーはどなたが考えたんですか?

中本:桝田省治さんです。『俺の屍を越えてゆけ』とか、『天外魔境』とかも作った方ですね。桝田さんが当時、I&Sという広告代理店から多分スピンアウトしたのか、もしくはフリーになった直後でしたが、そういうセンスはすごいなと思いましたね。

と、いうような感じで、博士の仕事をやったために、逆に細かい仕事が増えてしまいました。当時は各地を回って営業や、福岡ゲームショーみたいな内覧会みたいなことをやっていたんですね。営業部員が当時は少なかったので、「お前は顔も外に出ているんだし、人としゃべれるか?じゃあ行ってこい」などと言われて、北海道とかにも1人で行かされて、設営して名刺交換して「いつもお世話になってます」とか言って、知らない怖い問屋さんとお話したりしながら、営業の分と自分の分とを配ったりとか、営業活動もやらされたりしましたね。

Q:配るというのは、新作ソフトのサンプルROMとか、販促物を配っていたんですか?

中本:そうです。ファミコンで『ドナルドランド』というゲームを作ったんですけど、その頃には、マクドナルドに行って、ゲーム大会をやったこともありました。社用車のバンがあって、それにテレビやゲーム機とか、PAの機材を全部積み込んで、荻窪から千葉まで行って、「スペースはここですよ」って放り出された所に設営して、「できました、始めます。やあみんな!」って言いながら、設営から司会も全部やって、「キミすごいね、何点!」とか「じゃあ、これ賞品です、パンパカパーン!」とか言いながら盛り上げて。で、終わった後に片付けていると、「今日はお疲れ様でした!」と、コーラか何かのドリンクを1本くれたりして、このコーラが何よりもうまかったですね。

そのバンも、お金があるんだったら買い換えればいいのに、当時の社内では「白い狼」って言われていて、もうクラッチとかがおかしくて、ブワーンってすごいうなるんだけど、全然前に進まないんです。白いんですけど灰色に薄汚れていたので、それで「白い狼」って言われていた、ひどい車なんです。その「白い狼」で荻窪まで帰って、そこからバイクで家に帰って、「開発って何でもやるのね」と。今にして思うと、それって絶対に違うんだろうなと思うんですけど、本当にデータイーストはわけがわからん会社でしたね(笑)。

Q:今、『ドナルドランド』のお話に出てきましたけど、中本さんはこのゲームの企画も担当されていますよね?本家のマクドナルドとは、どうやって許諾を取ったり、使用契約を結んだのでしょうか?当時、権利を持っている代理店とかがデータイーストまで営業に来ていたのでしょうか?

中本:いいえ、どちらかというと逆で、こちらがマクドナルドに企画を持ち込んで、「ゲーム化したいんだけど」と話をしたのが始まりです。これは、元々は別の案件だったんですけど、元々やっていた方が途中で折れちゃったんです。で、マクドナルドってご存知のとおり、ディズニー並みにキャラクターに対して厳しいんですね。

Q:そうですよね。だからこそ、なぜ許諾が取れたのかなってすごく思ったんです。

中本:各キャラクターのことを、いろいろ研究したうえで、「こういう立ち位置、こういう出し方、こういう位置で出して、ドナルドがヒーローで進んでいくような形にしたいんだけど、どうですか?」って言ったら、「うん、本国に確認してみるよ」というお話になって「じゃあ、やっていいよ」ということになりました。でも、私の反省点としては、『ドナルドランド』は、ちょっとアクションゲームとしては斜め上の挑戦をしちゃったなあと。

Q:『ドナルドランド』では、爆弾がリンゴになっていましたよね。

中本:そうです。あれは後輩が、「絶対にリンゴの上に乗って、さらにジャンプができるっていう、リンゴジャンプを前提にしたマップ組みはしちゃいけない」って言ってきたので、私もそれに従うべきだったんです。でも、当時はイケイケだったので、「今の子は、これくらいやらないとすぐ飽きられちゃうよ」と思ったので、そういう方向で調整をしちゃったので結構、知る人ぞ知るゲームになってしまったんですけどね。

Q:確かに、リンゴの上に乗った状態でジャンプしないと、先に進めないステージとかもありましたよね。

中本:そうなんです。それを練習させるために、最初のステージ1-1に1UPが置いてあるんですよ。そこでリンゴ爆弾の使い方を練習して取ってもらうために入れたんですけど、まあマリオみたいにはうまくいかなかったですね。果たして、それに気づいてくれた人は何人いたのかなあと。

Q:マクドナルドは、ゲーム内容のチェックも厳しかったんですか?

中本:内容も見せには行ったんですけども、まず最初の1面とかは当然、とにかく綺麗な感じで作りました。で、耳になじんでいるマクドナルドの曲がかかり、ドナルドが投げたリンゴが人に当たっても死なないようにして、ただ顔が「オッ」っていう表情に変わるだけにしたんです。そうしたら、「これならいいですね、オーケーですよ」となりました。監修は多分、今ほど厳しくはなかったのかなと思います。

Q:企画段階でもマクドナルドからのチェックがあったんですか?

中本:企画の時はなかったです。最初の「やっていいよ」という時と、「できたけど、これでどう?」っていう、確認はそれだけでした。今は考えられないですけどね。当時は新宿の住友ビル、あの三角ビルの中にマクドナルドがあったんです。

Q:『ドナルドランド』を発売する際は、当然ですがロイヤリティを払う契約になっていたと思いますが、最終的に採算は取れたんですか?

中本:はい。お陰様で、それは大丈夫でした。それどころか、いろいろと協力をしてくださって、フライドポテトの引換券とかをご提供いただいて、「ソフトの数だけ、それを入れてもいいよ」ということも言っていただいたんです。今では考えられないですけど、割とおおらかなご対応で、すごくやりやすかったです。

ただ、日本にはなじみのないキャラクターも多かったんです。アメリカには存在するけど日本にはないものもいて、そういうキャラクターは比較的後のほうのステージに出すようにしました。フライガイズとかバーディとかはわかっても、グリマスとかになるともうなじみがないんですね。確か、キャラクターの大きさこれくらいで、色はこうだみたいな資料はありましたので、当時からそういうのは厳しいルールはありましたけどね。

Q:つまり、「ドナルドランド」は日本のデータイーストが独自に作って、日本のマクドナルドに持ち込んだうえでオーケーをもらったと。

中本:はい、そうです。

Q:勝手な想像ですけど、当時からデータイーストはアメリカにもピンボールとかを取り扱っていた現地法人がありましたよね?ですから、アメリカで作ったものを輸入していたのかなと思っていたのですが、国内産だったんですね。

中本:そのルートで作ったのは『ロボコップ』ですね。当時のアメリカのほうでは、ピンボールでかなり幅を利かせていて、『ロボコップ』は向こうでも比較的マイナーな版権だったので、むしろ「ぜひ出してよ」みたいな感じだったんです。

Q:最初はアーケード用のアクションゲームでしたよね?後に続編も出ましたけど。

中本:そうです。『ロボコップ2』の時は、データイーストという名前入りの筐体がバッタバッタと倒されるっていう。

Q:確か、映画の中でもピンボールがめちゃくちゃに破壊されるシーンがあった記憶がありますね。当時、データイーストがスポンサーになっていた縁だと思いますが。

中本:よくご存知ですね。なので、『ロボコップ』はアメリカ発で日本で作った企画ですね。年に数回、アメリカのデータイーストのことをInc(インク)、日本のほうはCorp(コープ)と言っていたんですけども、IncとCorpで共同の企画会議をやっていました。向こうがこっちに来る場合と、こっちから向こうに行く場合があって、向こうに行った時には、「こういう企画を日本で出すんだけど、そっちでタイアップ取れるキャラクターとかはないのかな?」という話をしていました。『ロボコップ』の企画は、そこから生まれて出来上がったものですね。

Q:ちょっと話が戻ってしまいますが、外注管理に関してお伺いしたいんですけれども、だいたいいつ頃から外に出せるようになったんですか?何を管理するかにもよるとは思いますが、産業としてどういうふうにゲームが増えてきたのかを考えた時に、外に出せるっていうこともひとつの要点だと思うんですけども、だいたいいつぐらいからの話ですか?

中本:実際に始まったのは、ファミコンの『探偵神宮寺三郎』の頃から本格化し始めたと思います。外注さんがプログラムを担当したということで言えば、実は『バギーポッパー』のプログラマーは外注さんなんです。外注なんですけども、プログラマーは社内に滞在して作っていただく形でしたね。もう名前を出しちゃってもいいと思いますが、山形にあるエス・エー・エスという外注さんの会社があって、データイースト関連の助っ人プログラマーとして、山形の会社ではあるんですけど、ずっと東京に滞在してくださって作っていただきました。

会社の中にいるタイプの外注さんとしては、多分これが一番、ファミコンのなかでは古いのかなあと。で、アウトソーシングをいろいろやり始めるようになったのが、『探偵神宮寺三郎』からでした。

Q:『探偵神宮寺三郎』はディスクシステム用ソフトとして発売されましたが、ディスクになったことで、何かラインを増やさざるをえないような事情があったのでしょうか?

中本:社内で嘆願があったんです。単純に開発ラインが、やりたいことはたくさんあるのに人が足りなくなり、しまいには業務用からも人が借り出されるようになっていたので、やっぱり業務用の人は業務用を作らなければいけないので、社内リソースが圧倒的に不足していました。サウンドに関しては、先程もお話したように元々リソースを増やしていたので、そこはある程度対応できたんですけれど、プログラマーやシナリオライターは不足していました。

『ヘラクレスの栄光』の時代から、『ドラゴンクエスト』のヒントを受けてRPGの開発をスタートしていて、同じように『ポートピア殺人事件』をヒントに、データイースト製のアドベンチャーゲームを作ろうよっていう話から、いくつか模索しているなかで上司の知り合いで新宿在住の新聞記者の方がいたのですが、その人が「シナリオをざっくり作ったんだけど、これがゲームになるか見てくれよ。酒の話のついでだけど......」というところからスタートしたんです。

「これ、すごくタバコを吸うシーンが出てくるんですけど、大丈夫ですか?」とも思ったのですが、よく考えると当時は今と違って、みんな自分の席でタバコを吸っていましたよね。もう今では信じられないですけど、自分の席に灰皿を置いてタバコを吸って、しかも、朝は女性の方が掃除をしたりして。

Q:昔の企業では、女性社員ばかりが掃除をしたり、お茶汲みとかをしていたんですよね。

中本:そうそう。掃除して、お茶まで出してくれるんですよ。今では男女差別になるかもしれませんけど。「それって新人の仕事だろ」とは思いながら、プログラマーの女性の先輩とかも、プログラムがすごくできるのに、「なんでお茶汲みさせられてるのかなあ」なんて、当時は思ってたんですね。で、「ゲームの中ではタバコがよく出てくるけど、まあいいんじゃない、ほかと同じものを出しても面白くないよね」って。ウチって変な、ちょっと癖のあるものが多いんですよね。

Q:でも、『探偵神宮寺三郎』シリーズはとても面白かったですけどね。

中本:で、開発が始まりまして、出てくる人も地名も全部、新宿とか実在のものにしまして。

Q:はい、新宿中央公園とか実在の場所が登場しますよね。

中本:デザイナーも、寺田克也さんというすごい方がいるので、じゃあ頼んでみようと思ってお願いしました。実は、神宮寺の最初の曲は外注さんが作ったんです。それはなぜかと言いますと、サウンドドライバーをさらに進化させようっていう話があったんですね。それは何かっていうと、他社さんでは音声合成とかノイズの音をうまく使って、ドラムの音を再現できると聞いて、ウチの会社でも研究したんですけど、どうしても容量が大きくなっちゃうんです。

それを少ないサンプリングでできるところを探していたら、今もあるかどうかはわかりませんが、ミュージカルプランという会社が当時ありまして、ここが素敵なサウンドドライバーを持っているということを聞いて、いろいろ見せてもらったら「これはすごい!」ということで、じゃあこのドライバーを生かせる、ウチにも作曲家はたくさんいるんですけども、「このドライバーを生かした曲を作ってもらえませんか?」とお願いして作ったのが、最初の『探偵神宮寺三郎』の曲だったんです。

それ以降は、自分たちでも技術が使えるようになりましたので、濱田さんらが担当して曲を作っていました。そういう技術の進歩と、作り手の進歩っていうのを積み上げていこうっていう一環で、外注さんを発掘していましたね。ちなみに、ミュージカルプランさんの代表作は、『ファミリーシンセいきなりミュージシャン』で、まさにその音源、サウンドドライバーを使っていたんですね。もっとも、その後は濱田さんらの手によって、自社製ドライバーにまた切り替わっていったかと思います。

Q:ディスクシステムだと、音が増やせるのもメリットでしたよね。

中本:そうなんです。1個だけFM音源が付いているので、もうあれはしびれましたね。当時は、任天堂製品を先に入手することはできなかったので、ウチの新人が普通にお店で予約して買ったソフトを持ってきたので、動かしたら今までに聞いたことのない音が出ていたのでびっくりしましたね。

Q:『ゼルダの伝説』のオープニングテーマは、すごく良い曲で本当にびっくりしましたよね。

中本:で、外注さんの持ち込み企画とか、外注さんにプログラムをお願いしたものは、PCエンジンなども出てきてさらに選択肢が増えていくと、お願いする機会が増えるようになりましたね。

Q:当時はアーケードゲームのほうにも、外注で作ったものがあったのでしょうか?

中本:業務用は逆で、あまりにも専用基板が特殊なもので、その仕様が外に漏れちゃうとさすがにまずいので、当時はコピー基板自体があまりなかったのですが、業務用に関してだけはほとんどプロパーな社員が対応していました。

Q:アーケードだと、テクノスジャパンが元データイーストの社員が独立してできた会社でしたが、そこで作ったものをデータイーストが発売したこともありましたよね。

中本:そうですね。そういうのもありましたね。あとは、他社の開発した業務用では『のぼらんか』とかがありましたけどね。

Q:『のぼらんか』の開発は、確かコアランドでしたよね。

中本:そうですね。そういう提携みたいなことはやりましたね。何と言いますか、データイーストは人材放出会社みたいな、たくさん良い人材が外に出て大きな仕事を成し遂げるという、まあ「業界あるある」ではありますが(笑)。

Q:ファミコンに続いてPCエンジンにも参入しましたし、データイーストは家庭用のマルチプラットフォーム戦略にも、かなり早めに動いた会社だったということですね?

中本:はい。これからは、もう家庭用が柱になる、業務用は家庭用のマーケティングになると。要は、家庭用を売るために業務用が作られる時代が来るなって見てましたね。だけど、業務用の連中は面白くないわけですよね、「そんなハズはないだろう」と。でも、実際には時代がそのような流れになってきていましたので。

Q:今の業務用と家庭用の位置付けの逆転みたいなお話は、中本さんご自身がお感じになったものなのか、それともデータイーストの中での共通認識みたいなものだったのでしょうか?

中本:これはもう、世の中的なことだったと思いますよ。まず単純に、売上が上がっていましたし。多分、経営者から見るとどっちが儲かるか、業務用ですごい開発費をかけたのにインカムが少ないものと、たいして開発費をかけていない家庭用の、世の中的にはあまり評価されないソフトであっても、何て言いますか先が、売上が見えるほうがいいだろうということで、家庭用のほうに傾倒していくっていう感じですね。私も多かれ少なかれ、おそらくそこに貢献をさせていただいたのかなって思います。実は、初年度は新人賞を、2年目以降も社内賞をしばらくの間いただいていました。でも、その度にみんなにおごったりするので足が出ちゃうんですけど、まあそこは喜んで出してあげて(笑)。

やっぱり、新人は先輩にどんなに目の上のたんこぶだって言われても、言いたいことを言ったほうが、それが自社のためになるのであれば、絶対プラスだと思いますので、新人の時こそ会社の色に染まる前に好き放題言ったほうが、後々きっと楽しいことがあるよと言いたいです。ですから、きっと私のことが嫌いだった先輩もたくさんいたと思います。もう間違いなく、生意気な奴だって思われていたでしょうね。

後半: データイースト在職時の証言

データイースト流のゲーム企画や開発の手順

Q:ラインがだんだん増えてきて、外注先ができたということでしたが、ラインを増やそうというモチベーションもあったわけですし、いろんな企画が上がってきたりということもあると思うんですけど、どういうプロセスを経て、出てきた企画が実際のラインに乗るような形だったんですか?

中本:まず、企画の種というのは、だいたいが喫煙所からなんです(笑)。喫煙所でタバコを吸いながら、「こんなゲームあったらいいんじゃない?」とか「こういうのやりたくない?」「こんなこと思ってるんだけど、どう思う?」というところからスタートしています。私がちょうどコンシューマーの企画をまとめていた時期は、定期的に企画会議を開いていました。そこでは進捗とか、そういうのはもうどうでもよくて、新しいメンバーが、次はどういうものをやりたいとか、どういうものを作るのかというアイデアを出して、例えば「近未来鬼ごっこ」のようなキーワードを1個決めて、簡単にペラ紙にまとめるような形でした。

で、どういうシステムにするのか、どんなことが面白いのかを出して、「だったら、もっとこうしたほうがいいんじゃない?」と話し合って、いくつかの実になるものをまずはキャッチアップします。その中から、「これはいけるかも」とか「これって今までにないよね」というものに関しては、いわゆる営業ですとか、社長へプレゼンするための準備資料を作成するフェーズに入ります。ただ、この時に、多分ですけど他社さんでは「前作は何万本売れて、いくらの上がりがあった」とかKPIについて触れたりすると思うんですけど、当時のデータイーストの風土では、開発はむしろ数字には触れない。おそらく業務用もそうだと思うんですけど、数字の話は一切出てこないんです。

それよりも、「このゲームはこんなに熱くて面白い。他社に対してこんなに優位性があるんだ、だから俺に賭けてみないか?」みたいな、もう完全に属人的でしたね(笑)。神谷さんと『大怪獣デブラス』のプレゼンをした時は社長、役員、そして多くの社員らの前で、2人してゲーム中に出す予定の踊りのシーンを踊ったんです。それだけ、どれだけ楽しくて面白いゲームなのかを、必死に訴えて企画を通したりしました。

ですから、データイースト独特のカラーっていうのは、会社のカラーというよりは、個人に依存したカラーが色濃く出る形になっていました。今思うと、営業の方は本当に大変だったと思いますね。「社長がやるって言ったから、もう売るしかないだろ」って、営業からすればすごい迷惑な話ですよね。営業の方が気持ちよく売れるように、こちらから営業のいる所に行ったりもしていました。営業の方がいる所には、資料がたくさんあるんですよ。各社から送られてくる雑誌ですとか、展示会で出回った資料とか、そういうものを利用してマーケティングの精査をするような企画会議に行って話を聞いたり、あるいは一緒に飲みに行って話を聞いたりして、そういう感覚を磨いたりもしていました。私から見て、そういうのが一番うまかったのは野島さんですね。

Q:野島一成さんですね。

中本:ええ。後に、『ファイナルファンタジーVII』とかを作った野島さんですね。彼は、特に営業とかに行ってキャッチアップするのがうまかった企画でしたね。逆に、営業とかにも一切行かなくて我が道を突き進む、もう「ゲーム道」みたいな自分で極める感じでやっていたのが渡辺さんという企画で、『サイレントデバッカーズ』とか、すごい特殊過ぎて「マニアでもちょっとできねえよ!」というようなゲームとかを作る、いろいろなタイプの企画がいました。

そんな企画のメンバーたちの個性というのが、最終的には会社のカラーになっていったのかなと思います。今の企業では考えられない、KPI無視のやる気重視で(笑)、俺を信じろ型の開発でした。マーケティングの真似事みたいなものも、ちゃんと勉強しようということでいろいろなポジショニングマップを作ったりとか、今いるお客さんを、「この象限からこっちの象限に引き上げるためには、このタイトルを出すんだ」みたいなこともやったんですけど、それはあくまで自分の話を聞かせるための説得材料として使っていたので、本気でマーケティングをしたと言うよりは、自分の企画を通すためのツールとして利用していたというのが実態ではなかったかと思います。

Q:データイーストでは直営店、つまりゲームセンターをマーケティングに利用しなかったのでしょうか?

中本:ウチは直営店が1、2店舗しかなかったので、そこまでの力はなかったですね。私が入社した時でも2店舗しかなかったですし、どちらも後に閉店しちゃいましたので。

Q:企画を実際に出して、ものを作るときって、例えば、シナリオとかあるじゃないですか?
シナリオは、企画を提案した人が個人的に完成させていくのか、それともいわゆるチーム的、集合的な考え方でシナリオを完成していくのか、どちらなのでしょうか?

中本:結論から言いますと、タイトルによってまちまちですね。例えば、『ヘラクレスの栄光II』では、最初は別の企画の人間がやっていたんですが、「いまいちだね」という話になって、後から野島さんが「面白くしてよ」と言われて手伝うようになったりとか、そんな形で作ることもありました。先程もお話した『探偵神宮寺三郎』とかも、シナリオをこちらで分解はするんですけども、元のシナリオの良さを生かして、ゲーム的に分解するようなコントロールを企画のほうではしていましたね。

逆に、『ダークロード』とかは企画担当だった巌さんが一所懸命作ったりしていました。ご存知のように、野島さんはシナリオ制作の能力がすごくて、面白いものが作れましたね。『ゴルフ倶楽部バーディーラッシュ』の、ロボットのようなおばあちゃんが出てきて、「わたしロボットなのよ、はは」とかいうセリフとか、PCエンジンの「アツクテシヌゼーー!」みたいなセリフとか。

Q:そのPCエンジンのゲームは、『ならず者戦闘部隊ブラッディウルフ』のことですね。

中本:はい、そうです。『ブラッディウルフ』とか、野島さんがシナリオを書いてたっていうのが、そういう部分は、会社っていうより、野島色がいろいろなタイトルで当時は出ていたっていうことですね。だから、かなり属人的で、今の企業では絶対許されないですよね。「これはこいつしか作れない」という感じになっていました。

Q:それと関係すると思うんですけど、例えばゲーム作る時のチームは、どのように形成しているんですか?

中本:例えばグラフィックは、基本的にグラフィックチームでまとめている者がいて、何人必要なのかを考えて決めます。納期が長ければ少なくするし、すぐ出さなくちゃいけないとか、持ち込み企画だったら全力でやらなくちゃいけなくなります。『メタルマックス』では、もうほぼ総動員でやろうとか、プロジェクトによって当然プログラムのほうも当然プログラマーをまとめる人がいて、「とにかく敏腕の人を突っ込もう」とか、「これは敏腕が1人、新人2人でもできるよね」とか、その辺は各セクションのとりまとめの者がだいたい決めますね。

Q:つまり、仕事のプロセスとしてはまず企画、シナリオがあって、「こういう感じにしよう」っていうのが決まってから、グラフィックならグラフィックだけのチームを作って開発が始まるということですね?

中本:それができれば一番いいんですけど、だいたいシナリオが完成していない時期から走り出すので、どの程度の規模になるのかだけを決めますね。

Q:シナリオも並行しながら作っていたんですか?
中本:そうです。なので、物によってはシナリオ待ちの時間は別の企画をしなくちゃいけないんです。とにかく、数に対して人が少なかったので。

Q:つまり、部署とプロジェクトとの両方に所属するような形におそらくなっていたんですね?

中本:はい。そういう形になりますね。

Q:すると、部署に対する帰属意識はそんなに強くはなかったということですか?

中本:いいえ。作っている時は、企画は実質ディレクターかつプロデューサーの役割をする必要があって、例えば「音楽はどんな曲にしたいのか?」という話になると、先程も言った酒井さんに企画が相談するような形でやっていました。でも、どうしても大きなタイトルになると、部署よりもプロジェクトのほうのつながりの方が強くなっちゃうので、私が実は一番反省しているのは、『メタルマックス』なんですね。

先程お話した、『メタルマックス2』以降は初期から投入された都合上、全員プログラムとグラフィックは社内のスタッフでした。企画組はすべて外部の人間でしたが、社内で専有して仕事をする場所の確保がなかなか難しい時期がありまして、近所の安いマンションと言うのもほど遠い、ボロアパートみたいな所を拠点にしていました。何かあった時は、私がそこに行ってずっと話をしなくちゃいけない、シナリオを作るための管理をしなくちゃいけないなどとやっているうちに、企画のまとめがかなり難しくなってしまった時期もありました。

その時には、ほかに企画をまとめられる人が、社内の人間で後に『探偵神宮寺三郎』シリーズをずっと続けることになる西山英一さんとかに、そういう部分を受け持ってもらうような感じになってきました。なので、一旦は小さいプロジェクトで始まったのが大きくなったのをまとめてはいたんですけど、逆になぜかプロジェクトに引き戻されることになったんです。それ以降は、プロジェクトを立ち上げたりとか、あるいは何かあった時に、「これはどうする?」みたいなかとを考えて進める仕事が増えていきました。

Q:この流れで、『メタルマックス2』以降は、企画が外注になったということですか?

中本:いいえ、企画はむしろ内製です。すでにこの時期から、残念ながら新規シリーズが逆に立ち上げにくくなっていましたね。それまでは割と好き放題に、もう何でも製品化できたんですけど、その頃になるとファミコンブームが一段落しまして、新ハードが出るとその開発費がファミコンの比じゃないくらい掛かるようになったんです。

主にグラフィックを作る費用がどうしても掛かってしまって、グラフィックを作るだけで容量の半分以上を使って、しかもそのほとんどが雑誌媒体とかでみなさんが実際に目に触れる所になるわけです。ゲームって、実際にやってみないとわからないじゃないですか?ですから、グラフィックにどんどん力を掛けるようになって、人件費がかさんじゃうんです。

Q:先程もお話されていた外注というのは、主にどういったプロセスの外注なんですか?

中本:プロセスの外注は、繰り返しになりますが、プログラマーが圧倒的に足りなくて、その部分を外に借りるということが多かったですね。しかも、こと新ハードとなるとハードの解析段階からやらなくちゃいけませんので、そのハードの経験がある方に頼んでやっていただいたほうが、コストパフォーマンスが良いということもありました。やはり、どうしてもKPIを無視できなくなるという形になりますので。ですから、企画は『メタルマックス』は外からの持ち込みでしたが、それ以外は逆に中で磨くという形になっていきました。

Q:外注のお話とは逆の形になりますが、データイーストのゲームをナムコットブランドとしてファミコンソフトで出せるようになった経緯とかは、何かご存知ですか?

中本:以前から、単に社長同士の仲が良かったとしか聞いていないですね。現に、その後にナムコからも人が来ましたし、セガからも人が来た時期っていうのはありましたね。結構、いろいろな会社の方の出入りがあって、下のほうは出ていく一方で、上のほうでは入ったり出て行ったりっていうのが、当時は割とよくありましたね。

Q:例えば、『カルノフ』とか『ドラゴンニンジャ』はナムコから発売されましたよね?ナムコットブランドで出たことに対して、開発の方が「え、なんで他社ブランドなの?」などと反発するようなことはなかったのでしょうか?

中本:いいえ。それはもう、出せるチャネルがあれば、それこそいくらでも出したかったですよね。ほかにも、『サイドポケット』とかも出しましたよね。

Q:ビリヤードのゲームですね。

中本:そうです。それも全部社内で作っていたんですけど、1年間に出せる本数が3本とかに制限されていましたので、それ以上出したい時は、ナムコさんの力を借りる感じでしたね。

Q:『バーガ―タイム』とか『カルノフ』も、テレビCMも当時ナムコが流していましたよね。

中本:それから、『タッグチームプロレスリング』とかもそうですね。

Q:『タッグチームプロレスリング』も、元はデータイーストのアーケードゲームでしたよね。

中本:ナムコさんは特殊チップを持っておられたので、私は入社当時からファミコンがもう好き過ぎてしょうがなかったんですけど、ハードウェアをたまたまやっていましたので、バンク切り替えチップですとかを、他社さんがオリジナルで作られていたのがわかっていたんですね。任天堂さんのほうでも、途中からMMC1とかMMC3とかを作って共通化していったんですけれど、それまでは各メーカーが勝手に作っていた変な時代がありまして、その頃は他社さんのバンク切り替えチップの動作を個人的な趣味で調べていたんです。

ですが、「会社でもそれをやっていいよ」と言っていただけたので、会社でも解析をして、「このソフトチップは、ポート通った時は、バンクはこういうふうに切り替わるのか」とか、いろいろと調べたりしていました。元々ROMカセットであったソフトをディスクシステム用ソフトにする時には、実は何の改造もせずにできるソフトがいくつかあることを突き止めたりとか、そんなことを調べさせてもらえる時期がありました。

例えば『カルノフ』は、部分スクロールと言って、下のほうはが切れているけど、上のほうは上下左右に動くようになっていました。他社さんでも、バンダイの『ポケットザウルス』とかでは部分スクロールを使っていましたので、「他社でできるんだから、うちでできないわけないじゃん、頑張って!」ってプログラマーに言って、出来上がったら「やっとできました!」「おー、すごいすごい!」とかって話をしましたね。でも、後で念のためチップを解析したら、部分スクロールがハード的にできることがわかったんです(笑)。つまり、私はプログラマーにすごい大ウソをついてだましちゃったんですね。

Q:本当は仕様で入っているのに、こっそり作らせちゃったんですね。

中本:でも、ちゃんと実現できましたので、「あのプログラマーはすごいや」「彼はすごい能力の持ち主だよ」って、お詫びに周りに触れ回ることで許してもらいました(笑)。まあそんな失敗とかがいろいろとありましたね。すみません、また話がそれてしまいました......。

アーケードゲームの開発も担当

Q:中本さんは、アーケードゲームの『強行突破』と『ダーウィン4078』の開発も担当されたそうですが、そもそもアーケードゲームの開発を担当するようになったのはなぜですか?

中本:多分ですが、後で聞いた話では大学の工学部卒の人は、もうほぼ選択肢がなくてハード部門の配属になったからだと思います。。その理由は、やはり当時の文化でもあったコピー基板問題。コピーされてしまうと、莫大な開発費を掛けたものが、あっという間に自分の所に1円も入らず広まってしまうっていうのを何度も経験しまして。まあ業界全体がそうだったとは思いますけど。

コピープロテクトチップの設計とか、CADを使えてチップを制作してもらえる会社さんのデザインスタジオに、もうほとんど泊まりこみに近い状態で、ずっと通い詰めになってCADで設計したりするような、そういう知識とか忍耐力が必要だということから、工学系男子は強制的にハードウェアをやるみたいな文化があったようです。私とかも、なぜかそれに組み込まれちゃってたので、いきなりはんだ付けからスタートっていう感じでした。『ダーウィン4078』の元になったのは、実は『強行突破』の基板で、『強行突破』の基板と『ダーウィン』の基板は、同じなんです。

Q:つまり、『強行突破』の基板に『ダーウィン4078』のROMを差し替えるだけゲームが動くんですね。

中本:ROM交換とプロテクトチップの変更だけで動くんです。その元設計を、先輩が行ったものを調整して出したんですけれども、私のミスでその基板のロケテスト中には、基板の上にうまくいかないところをパターンカットして線を飛ばす、ジャンパーが100本も飛ぶ、100本ジャンパー基板になっちゃったんですね。

そのジャンパーが、移動中に切れてしまわないように樹脂で固めたので、もうROM交換は不可能な状態になってしまいました。後で工場から、「もうあれはひどかったね」「お前がその責任者か?」って苦情を言われるような、ちょっとした思い違いでそんな基板を作る羽目になってしまいました。「もう千葉工場のみなさんごめんなさい」と(笑)。
そんなことがありましたので、その2つは思い出深いです。ジャンパーが途中で切れて、「わかんないから直せ。お前しか直せないんだから、悪いけど来てくれる?」って、日曜日の深夜にプログラマーから自宅に電話が掛かってきたこともありましたね。

Q:中本さんが開発に関わられたアーケードゲームは、『マジカルドロップ』を作り始めるまでの間はこれらの2タイトルだけですか?

中本:はい。『マジカルドロップ』のアーケード版で私がやったのは、どちらかと言えばルール調整のほうで、この時はハードウェアには一切触っていないですね。実は『マジカルドロップ』のコンシューマー版は、一旦開発を止めた時期がありました。『マジカルドロップ』は、自分でやらないと進まないパズルで、例えば『テトリス』はずっと受け身で進んでいきますが、「これを受け身にしていくのは、かなり難しいよね」ということで、コンシューマー版は業務用と並行して開発するのは一旦止めて、やがて別のタイトルのほうの優先度が上がってしまいましたので、実質的に立ち消えになってしまったんです。
逆に、業務用のほうの開発はすごく頑張ってゲームを仕上げる流れになりまして、それができたのを受けて、コンシューマーにも移植をしましょうと。それだと確かにお金もかからないし、版権も一緒だからということで。

Q:ハードがネオジオでしかたら、家庭用にもアーケード版のソースをそのまま持って来れますしね。

中本:そうです。そのとおりです。コンシューマー版の『マジカルドロップ』は、サターン版とプレステ版を出す時に私が担当になりました。そこで、どうしてもやりたかったのが、サターンとプレステ版を出すにあたって、初代『マジカルドロップ』と『2』はゲーム性もキャラも違うけど一緒に出すことでした。

『マジカルドロップ』のキャラクターデザイナーと、『マジカルドロップ2』『3』のキャラクターデザイナーは別の人で、その2人が作った『マジカルドロップ』を同じものとしては扱ってくれなくて、一緒に商品化するのがとても難しかったんです。最初の『マジカルドロップ』のプログラマー、グラフィックデザイナーのつかぽんさんという女性の方はもう退社していましたので、確か『2』と『3』のキャラデザインは竹内さんでした。それでも、私は絶対に一緒に出したかったので、2人を何とか説得して同じタイトルとして出す許可をもらいました。すごく辛かったんですけど、実現した時は小躍りするくらいうれしかっですね。

Q:『マジカルドロップ』がシリーズ化したということは、第1作目の評判がよかったから続編も出そうということになったわけですよね?

中本:そうですね。2作目はポップなキャラになりましたが、1作目のキャラとはもう真逆で、1作目のキャラはアバンギャルドと言いますか、何かシュールな感じなんですね。「それがいい」と言うファンももちろんいたのですが、『2』以降のアニメキャラに近いデザインのほうが一般受けはすごくよかったので、一番最初のデザイナーは当然面白くなくて、「もうやめた」みたいな流れになっちゃったんです。

それから最初の時には、タロットカードのノベルティグッズを作ったり、どちらのキャラも使えるようになったので、その後にはトランプを作ったりもしました。その頃は、そういう売り方も工夫できたので面白かったですけどね。データイースト末期の、最後の花火のひとつかなという感じでしたね。

Q:データイーストでは、専用筐体を使用したアーケードゲームも出していましたが、生産あるいは量産する際は荻窪近辺にあるどこかの工場を利用していたのでしょうか?

中本:いいえ、設計は社内で、生産は千葉工場でやっていました。筐体の担当は課長と課員の2人しかいなかったのですが、2人とも仕事をマルチでこなしていました。筐体もいろいろありましたね、例えばレーザーディスクゲームの筐体とか。

Q:エレメカとか、占い系の筐体ものも出していましたよね。

中本:はい。そういうジャンルを2人で生み出していましたね。

Q:それから、『プリクラ』ブームの頃には『スタンプ倶楽部』も出しましたよね。

中本:そうですね。『スタンプ倶楽部』懐かしいですね。これを考えたのはグラフィックの女の子なんですけど、「すごかったから」ということで賞を受賞してましたね。「顔写真がスタンプになったら楽しい」みたいなことから実現した、女の子ならでは企画でした。あの時は、社内での女性の地位がすごく上がっていきましたね。

Q:人の出入りがあったというお話がありましたが、データイーストはそういう会社だったんですか?新卒が入って、データイーストで腕を磨く会社なのか、あるいは上も下も中途で出入りがあるのか、どちらでしたか?

中本:どちらかと言えば、新卒はずっと採ってはいるんですけども、育つと旅立っていくような学校的な感じでしたね。

Q:先程も、人材輩出会社だって仰っていましたね。

中本:ええ。ちょっと良くないことなんですけど、育てた人間のなかで恩義を感じて残った人間は、私を含めて割と少なかったですね。私も、最後には逃げるような形で辞めてしまったんですが。途中から入ってくる人も実はいたんですけど、それは教育をしたうえで入ってきたという形でした。それはどういうことかと言いますと、サテライト構想というのを当時の会社ではやっていまして、札幌サテライトとか福岡サテライトとか、データイーストの支部を作ったんですね。

そこには新人もいましたが、やる気のある中途が集まって、「ゲーム業界に入ってみたい」っていう人を育てて、もしいい人がいたら、すぐに地方で働けるならそこで使って、そこでは無理だったら東京に来てもらって、「社宅を貸すから、ここで作ってね」という形でやっていました。そのうちの1人が野島さんですね。データイースト卒の中では、彼が一番儲けていると思いますが、彼は札幌サテライトの出身で、上京して「東京って怖い所だね......」みたいなことを言ってましたね(笑)。

Q:そのサテライトは、いつ頃に作られたのですか?

中本:何年だったか......ちょうど、コンシューマーとアーケードの部隊を補強しようかっていう頃ですね。どちらかと言えばコンシューマーが中心で、営業所だった所に開発を養成するような仕組みを作ろうっていう取り組みだったと思いますね。福岡サテライトからは優秀なプログラマーがたくさん出てきましたので、「そうか、考えるのが得意なのは北海道で、体を動かすのが得意なのは福岡なんだね」と。まあ、プログラマーも頭を使うんですけど(笑)

Q:当時から、九州ではソフト産業が盛んでしたしね。

中本:それもあるかもしれないですね。すみません、もう気分で話しちゃって......。

Q:サテライトについては、先程から何度も仰っているように、データイーストでは企画はあってもそれを実行する人が足りない状況があったので、中本さんがそういう仕組みを整えていったっていう理解で宜しいですか?

中本:いいえ、当時の上司ですね、進言したことはありますが。せっかくネタがあるのに、開発体制がないから作れないという残念な思いはもうしたくない。だったら、とにかく層を厚くしようと。東京だけに固執していたところで、東京だと逆にいい人はもっと売れてるゲームメーカーに行く道とかがいくらでもありましたので。

Q:86~87年くらいになると、競合するメーカーもいろいろと出てきていましたしね。

中本:はい。だったら、元から土地勘のある営業が駐在している営業所で、その土地ならではの人とか、またはその土地から遠くには行けないけど、やる気のある人を育てようじゃないかというようなサテライトコースでした。確か、仙台にもサテライトがありましたね。正社員化するための面接に私も出張してやっていました。

Q:会社の最盛期には、社員は何人くらいいたんですか?

中本:100人そこそこだったと思います。特にグラフィックは、アルバイトの方がとても多くて、プログラマーはアルバイトよりもプロパーの方が多かったですね。企画は、デバック担当でアルバイトだった人間が実は企画もして、やっぱりゲームをたくさんやっているので、「面白いゲームのネタを考えてよ」って言ってプロパー、社員化した例もあります。すみません、この辺の事情は、私はあまり詳しく知らないです。

ファミコン名人ブーム期の業務内容

Q:いわゆる、ファミコン名人ブームの時期がありましたよね?
当時のブームはどういうものだったか、改めてお聞かせ願えますか?

中本:ファミコンが出てから、任天堂の名前はみんな知ってるんですよ。ハドソンやナムコさんの名前も、早期に参入した所は知られていましたし、ゲームセンターに行く人だったら、ハドソンはわからなくてもナムコはわかるし、パソコン用ソフトを遊んだり、PCで自作プログラムを作る人はハドソンを絶対に知っているという、そういう知名度があったと思うんです。

ところがデータイーストとか、それから、詳しくはわかりませんがジャレコやアイレムさんとかも、業務用ではそこそこの中堅だったんですけど、「世の中の人は知らないよね。ゲーセンに行ってた人でも、メーカーの名前までは知らないよね」っていうなかで、「自社のソフトを売るにはやっぱり、会社のソフトを売る顔となる人がいるよね」っていうような流れでした。一番最初に始めたのは、何と言ってもハドソンの高橋名人で、それからバンダイの橋本名人、このおふたりが双璧でした。高橋さんはプロパーの社員ということで、どちらかというと他のメーカーの方というよりは、ウチを含めて社員中心が多いなかで、橋本さんはバンダイの社員になる前は、確かアニメの仕事をされてましたよね?

Q:橋本名人は、学生時代にアニメ雑誌の『アニメージュ』の編集部でアルバイトをしていたそうですね。

中本:その仕事をされていた方が、後にバンダイに移って名人という形になったので、スタートとしては高橋名人が最初なのかなと思います。高橋名人の遠く足元にも及ばない我々としては、週に1回のファミリーコンピュータ関係の番組だった『ファミっ子大作戦』、後に『ファミっ子大集合』と名前が変わっていったんですけれども、それにウチとしてもスポンサーをすることになりました。番組はアルファ企画という所の制作で、メーカーからのルートでも出られるっていう座組みがあって、他社さんも多分同じような感じでやっていました。

シーケンスとしては、我々はメーカーの人間でしたので、収録の時間はそんなに取れないんです。なので、月に1回の収録で、翌月分もすべて撮っていました。でも、ソフトは生ものみたいなものなので、その段階では発売できる状態にないものも、発売予定にはなっていたりしました。そういう場合は、見えない所はみんなROM基板がむき出しの機材を使ったりして(笑)。それで子供たちに、「このゲームは、こんなふうに遊ぶんだよ」とか、そういうことは台本には書かずに、全部一発で本番みたいな感じで撮っていましたね。

そういうことをやっていると、「テレビで見たやつだ」とか、「これ知ってる。このメーカー好き」とかいうのが、徐々に形成されていったんですね。逆に、今では個人情報保護法やら何やらでいろいろと難しいのかもしれませんが、まだ当時はおおらかな時代だったので、ビデオにわざわざ撮っている人もいなかったので、まあいいじゃないのかなあと。そこで何が起こっても放送前に撮り直しができますし、宣伝媒体としてはやっぱり大きいよねと。

ごくまれにですけど、ゲームショウとかの場で実演をしてあげたりですとか、軽いファンサービス程度のことをしてあげるっていう、メーカーさんにはよっては、そういうやり方もしていました。今だとYouTubeとかで簡単にできる時代になりましたが、実際に制作者が出て行って話をした方が早いですし、今では実際にそうなっちゃっていますけど、当時は代表の顔が必要だったんです。

あと、もうひとつの背景は、メーカー側が開発者の引き抜きを恐れていました。例えばセガさんでは、いろいろな筐体のゲームとかをテレビで特集する時に、制作者も一緒に説明のために出るんですけど、全員がサングラスを掛けているんです。覆面状態で、名前も出しちゃいけないっていう時期がありました。ウチの会社でも、一時期そういうことが実際にありまして、途中からはやめたんですけども、名前は必ずその人に準じた仮名、いわゆるハンドルネーム的なものを作って、エンディングには仮名を入れてもいいけど実名は出さないようにしようと。あるいは、エンディング自体を出さないようにしようということで最初はやっていましたね。

でも、「引き抜きがなくても出て行く人は出て行きましたし、ずっといる人はいるんだから、それじゃあ意味がないよね」ということで、途中から「このソフトは、私の責任によって作りました」ということで、実名を出すようになったんです。他社さんでも同じ流れだったでしょうね。

Q:データイーストでは、昔からアーケード版でも『ダークシール』など、エンディング画面に漢字でフルネームのスタッフロールが出てくるタイトルがありましたよね?昔はみんなアルファベットでイニシャルとか、仮名をちょっとだけ出すのが当たり前でしたが、『ダークシール』ではサウンド担当の吉田さんも、フルネームで吉田博昭と出ていましたが。

中本:そこはまあ、元々目立ちたがり屋な人がゲーム作ってることが多かったですので。

Q:だいたい何年くらいから名前を出すようになったんですか?

中本:ファミコンだと、『ドナルドランド』辺りの時代から、版権元とかを実名で出さなくてはいけなくなりましたので、そうなると「自分たちだけが、実名を出さないわけにはいかないね」となった辺りからですね。もう引き抜きとかがあってもいいでしょうと。

Q:80年代の終わりくらいから、名前を出すようになったということですね。

中本:ええ。セガさんとかでは、鈴木裕さんみたいな方がもう実名でガンガン出てきていましたから。

Q:90年代に入ったくらいから、スタークリエーターのブームが始まりましたよね。

中本:その辺りからでしょうね。それまでは、引き抜きがあるとやっぱり何よりも困る。だけど宣伝はしたいっていう苦肉の策でした。

Q:90年代はテレビのプロモーション、広告を打つことが重要になりましたけど、80年代の頃は雑誌ですとかメディアの使い方は、それ以外はどういうものがありましたか?

中本:メディアですと、ウチがたまたまやっていたことで言えば、例えば私がコレクターでもあったと言いますか、ファミコンが大好きだったのでファミコンとかほかのゲームも集めていて、アーケードゲームも好きで遊んでいたのですが、基板は高いから買えないと思っていたら、ある時期になってファミコンとかコンシューマーの部署に移ってから、アーケードが欲しくなりまして。で、ゲーム雑誌を見たら中古基板の広告が載っていたんですよ。

Q:昔のゲーム雑誌には、基板屋さんがよく広告を出していましたよね。

中本:そうなんです。それで、基板がめちゃくちゃ安いことに気付いてしまったんですよ。当時はバイク通勤で、都内ならどこにでも行けましたので、じゃあ自分の正体を最初は明かさずに、とにかく行ってみようと。それで、いろいろお話を聞いてみると、秋葉原と同じでまとめて買うと安くしてくれるし、すごくお願いすると安くしてくれることに気付いたんです。もう古くなっていたけど、私が大好きだったナムコの『ゼビウス』とか、『スペースインベーダー』の3枚組の基板とかをかなり安く、2,000円とか3,000円とかでどんどん買いましたね。

それで、「ファミコンソフトは4,000~5,000円もするけど、アーケード基板は2,000~3,000円で買える。だったら、じゃあ本物のほうがいいや!」って思いまして、会社の帰りには常にバイクの後ろには基板を載せて走るような生活が始まりました(笑)。壊れているものとかは、「タダで持っていっていい」とか言ってくれることもありました。元々ハードウェアの仕事をもやっていて、しかも解析をするのが好きでしたから、持って帰ってから家にあるテスターで調べてみたら、「あ、これはファミコンを業務用で15分間遊べる基板だ!入力じゃなくて、LEDの『あと何分』という7セグの出力のここにある!」と気付いたこともありました。

それから、すごく親しくなった基板屋さんでは、コンプライアンス的に問題があるので正体は明かせなかったのですが、基板の修理とかも「これとこれを抜けばいいだけだよ」とか言って、その場で直してあげたりして夕食をごちそうになったりとか、そういうこともやっていました。まあそんな流れで、宣伝担当が雑誌に私のことをリークしたらしく、『ファミ通』とか『マル勝』とか、『ファミコン必勝本』とかで「ゲームコレクターの写真を撮りたい」と言われまして、実家に集めたソフトとか基板とかをばーっと並べて、そこの真ん中にいるような写真とかを撮って、「『こういう変わった人がデータイーストにいるよ』みたいな宣伝をしたい、会社の宣伝だと思って受けてくれと」言われたこともありました。でも、それってコレクターから言うとすごくつらいんですよね。全部箱から出して、終わったらまた全部箱に戻すとか、そのたびに傷んじゃうし、説明書はどっかに行っちゃたりするんですが、喜んでもらえるんだったらまあいいかなあと。

で、3誌くらいに、ちょっと恥ずかしい写真が載りました。そのうち、ひとつ残ってるのが『ファミ通』で、「中本博通」でネットで検索すると今でも出てくる、変なゲーム機とかを抱えた写真が、もう消えたと思ったらまた復活したりして、それだけはなぜかネットの狭間で漂っているんです。その時の恥ずかしい、雑誌媒体を利用してた時の忘れ形見ですね。
それからもうひとつは、先ほどご指摘があったように裏技なんですね。売れなくなった時に、もう一度火をつけるために裏技をわざと出して、またこのソフトに注目してもらおうっていうことですえ。実は、神谷さんと作った『大怪獣デブラス』には、「きっと『メタルマックス』のほうが売れてこっちは売れなくなるから、売れない時代が来た時にすげえことができるように」ということで、ゲームをもう1個入れおいたんです。

このゲームは、デブラスという怪獣を避けながら卵を運ぶシミュレーションゲームなんですが、要は自分が怪獣になって相手のユニットを壊しまくれる、自分が怪獣になれるモードが実はあったんです。「それも最初から入れようよ」って初めは言っていたんですが、「いや、売れなかったときの保険で入れよう」という話を神谷さんとしたのですが、隠しコマンド難しすぎて、2人とも覚えていないんです。

Q:それだと、もう誰も再現できないですよね?

中本:ネットに解析してくれた人が誰かいないかなあとも思いますが、マイナー過ぎて誰も解析してくれなくて。自分でそのモードを遊びたいんですけど遊べないっていう、自らの策にはまって世に出なかった例になってしまって(笑)。

Q:ごく簡単なコマンドだったら、自力で探し当てる人がいたでしょうけど、難しいコマンドにした結果、誰も再現できなくなったというのは、今となっては面白いお話ですね。

中本:それで、広報からも「お前は何やってんの?」って言われてしまいました。

Q:あらかじめマーケティング的な意図を持って、二枚腰と言いますか、「1粒で2度おいしい」みたいな楽しみ方ができるモードを入れていたんですね。

中本:ええ、意図的に入れていましたね。そのほかにも、ゲームショーとかでノベルティを作ったこともありました。そうすると、なぜかジッポーとかが売れるんですよ。ゲーム業界の子供向けなのに、ジッポーにいろいろなロゴを入れたり、キャラクターを掘ったりしたものが売れたんですよ。

Q:データイーストですから、『探偵神宮寺三郎』シリーズの人気があったのでジッポーが売れたのではないでしょうか?

中本:そうかもしれないですね。確かに、このシリーズは売れましたし。

Q:「名人」というのは、要はメディアミックスですから今のYouTuberぽいですよね、そのようなプロモーションをするということで。

中本:そうなんですよ。あんまり見られない、週に1回だけしか見られないYouTuberですよね。

Q:名人としてのお仕事とは違いますが、データイーストのゲームミュージックバンド、「ゲーマデリック」のメンバーに中本さんも誘われていたのでしょうか?

中本:いえいえ、私の音楽性とか演奏技術ではとてもとても......。

Q:シンセ担当としてメンバーに入れなかったのでしょうか?

中本:いやいや。もうその頃は、シンセはデジタルの時代でしたから、どちらかというと楽器で、音で驚く時代はもう過ぎていていましたので。私がシンセで本当に人を驚かせたのは、高校時代の学園祭ぐらいだったと思います。その時はみんなよく知らないけど、ステージですごいことが、何だかよくわからないことが起こってるみたいなこととかもできたんですけど、もう音楽的には古くなっていたと思います。

Q:一時期、各メーカーが結成したバンドによるゲームミュージックライブが流行したことがありましたが、こちらのほうには全然関わっていないんですね?

中本:そうですね。サウンド部屋に行って、遊び程度でちょっとギターを弾いてみたりとか、サウンドチームの人から飽きた古い楽器を安く売ってもらったことはありましたけどね。

Q:音楽は、あくまで趣味の範囲関わっていらっしゃったということですね。

中本:趣味の範囲でしたね。ですから、去年やった「ヘラクレスの栄光」シリーズのサウンド座談会に出た時も、「俺サウンドじゃないよね?」ってみんなに言ったのですが、「いやいや、サウンドですよサウンド」って言われちゃいまして。サウンドチームのみなさんとは、麻雀仲間でもありましたね。酒井さんとか濱田さん、それからMR☆K(みすたけ)木内さんとか。

Q:元電撃ネットワークの木内さんですね。

中本:そんなつながりがあったので、セガに濱田さんが移籍した時も、セガの保養所に我々もなぜかいたりして。でも、学生時代のそういう遊びは、やっぱり役に立つなあと。やっぱ、大学生は遊ばないとダメですよ。生意気で遊び好きのほうが、今まで楽しく過ごせるんじゃないかなと思います。すみません、また話がそれちゃいました(笑)。

改めて振り返る、データイーストならではの社風

Q:今のお話を聞いていますと、昔は引き抜きを恐れていた時期もあったけど、ナムコとの関係とか、そうやってセガさんにも出入りができたのは、データイーストでは企業間の垣根が低かったからということですか?

中本:それもあったと思いますね。業界では割と古いほうですが、元々ウチから見ればセガさんは大手、ナムコさんは超大手で、タイトーさんとかも雲の上。社長はそう思っていなかったかもしれませんが、少なくとも現場はそう思っていて、データイーストのポジションは業界内では最弱だったと思っていました。でも、「変なものを作れば自分たちが最強」みたいな、そういうこだわりはみんな持ってたんじゃないかなと思います。

Q:ゲーム会社は、別に閉鎖的ではないけれども、昔はそれほど他社とのやりとりはしないイメージが強かったのでが、今日のお話を聞いてると開発する人、企画レベルとかではかなり交流があったようですね。

中本:はい、結構ありましたね。その辺はおそらく、当時の社長の福田さんや営業部長の人脈があったのかなという気がしますね。

Q:社員の皆さんのほうでも、入社退社じゃないやりとりとかも結構あったんですね。

中本:まあ、そうですね。どちらかと言えば、入ってくるのは外注さんで、ウチにずっと滞在しているとか、「企画担当者が、あの部屋をずっと占領してるぞ」みたいな、そんなイメージですね。

Q:外注さんが「滞在している」と言うのは、データイーストの中にずっといて仕事をしているということですね?

中本:はい、そうです。

Q:90年代のゲーム業界は、外注と言えばラインを1個外に借りて、1本のラインの仕事をまるごと投げるような使い方がイメージとしては強いのですが、今日のお話を聞いていますと、必ずしもそうではなかったんですね。

中本:全体プロジェクトの一部をアウトソーシングするものが多くて、最初は企画を自分たちが主体でやっていたのが、逆に企画だけをアウトソーシングして、制作陣は中で全部でそろえるようになっていきました。まるごと外に出しているものもなくはないんですけど、すごく少なかったです。丸投げに近かったのは、『ドロップロックほらホラ』というゲームがそうでしたね

Q:PCエンジン用のパズルゲームですね。

中本:はい。落ち物パズルゲームの国内版で、「『マジカルドロップ』的なものをひとつ作ってみようか」ということで始めて、私は行程管理とかもやりましたが、向こうに企画の方もプログラマーもほとんどの人がいましたので、これについては進捗の確認をやっていたという形でした。多分ですけど、私も中の人だったということで、スタッフロールに私の名前も、はっきりとは覚えてないんですけど出ていると思います。これはほぼ外だけで作ったもので、あとは『パチンコグランプリ』とかもそうでしたね。

Q:ファミコンのディスクシステム版のパチンコゲームですか?

中本:ええ。それはマリオネットさんという会社で、ほかにもパチンコソフトを、確か『パチコン』とかも作っていました。

Q:TOEMIランドが、ファミコンで発売したパチンコゲームですね。

中本:TOEMIランドだったですかね。それも確か、大元のゲームを作った自社では出してはいなくて、大元はマリオネットさん。パチンコもの、いろいろな跳ねものとかのシミュレーターを作られてたんですけど、おそらく発売できるネタはたくさんあっても発売できる所がなかったという、ウチのものをナムコさんで出していたのとは逆パターンだったんですね。じゃあ、ウチからもパチンコ的なものを出してもいいんじゃないかと。安かったこともありましたしね(笑)。

私がプロデュースでしたわけではなかったのですが、ゲームを見るうえで「お前ら、もっとパチンコやってこい。そこで打ってこい」って、なぜか私ともう1人くらいの担当者が当時の部長から言われたんです。

Q:業務命令で「打ってこい」というのは、すごいお話ですね。

中本:意味がわかんないんですけどね。まあ要するに、「パチンコ店を知ってこい。知らんもんは作れんから知ってこい」ということですが、そういう社風は昔からずっとありましたね。

Q:会社はやがて、だんだん業績が悪くなって倒産することになってしまいましたが、中本さんが実際に現場にいらっしゃった時に、会社がまずくなってきたなと実感し始めた時期っは、だいたいいつ頃でしたか?

中本:そうですね......セガサターン用ソフトの開発をしていた頃から、「だいぶまずくないか?」っていうのはありましたね。

Q:開発費が高騰したとか、セールスが芳しくなかったということでしょうか?

中本:はい、そうです。その頃になると、プレイステーションタイトルの『マジカルドロップ』は自社での成功例だったと思うんですけど、それ以外では、例えば『慟哭そして...』のような、作家さんや原画担当の方にどうしてもすごくお金を使うタイトルが増えていったんです。しかもグラフィックの量が増えましたので、その制作費とかが高騰すると、話題性が出て評価もそこそこ受けたとしても、本数がそれほど伸びなくなるというようなものが、大型タイトル化しつつリクープしにくくなってしまうと。昔の体力があった頃はまだ頑張れたんですけど、もうそこまでの体力がその頃には残っていなくてという感じでしたね。

ですから、これを最後にもうディクリーズしたと言う感じでしょうか。仲間はちょっと、まあ、私たちが話を聞いた時は、もうクラクラで倒れそうになった社員もいたっていうのは、いまだに覚えていますけども。扉には鍵がかけられみたいな感じで。それまではもうオープンな感じで、大学ノートにびっしり書いて「俺のゲームを見てくれ!」っていう、高校生みたいな人がいる時期もあったんですけどね。そういうような感じが、やっぱ、その頃になると、主要な人も大分抜けちゃっていました。

私のほうでも、会社の外から「こっちに来いよ」みたいな話をもらったりしていました。でも義理があるし、自分は古い人間なので、そう簡単には離れられないんだよなとは思っていたのですが、とある時期に社長の決断がありまして、「ああ、ついに社長、その決断をなさるのね」っていうことになって、どこまでもついていくつもりだったんですけど、それだけはちょっと受け入れられないみたいなことがあったんです。

当時の社長の心理状態を考えたら、明らかにそういうことを言えない人なので、本人の名誉のために詳しいことは言えませんが、ゲームメーカーとしてあるまじきことを発言されたのを機に、私のほかにもそれを聞いてしまった人がいたのですが、それまでは骨をうずめるまでいようと思っていた人間も、そのタイミングで辞めてしまったということもありました。まあ、経営者としてはしようがないと言いますか、うまくいっている時期の経営者としては良かったというか、いい意味でも悪い意味でもいろいろなことをやらせてくれて、こんなに自由で可能性がある会社はないなあと。ゲームにも表れていますよね。『チェルノブ』とか変なゲームばっかり作って、「普通はこれ、企画でハネられるよね」みたいな、ちょっとありえないものばかりで。

Q:『チェルノブ』は当時、新聞でも叩かれましたよね。

中本:テレビの『トゥナイト』とかでも叩かれましたね。取材の仕方は全然違うのに、実際に放送された時には、意図的に編集されて悪意の塊のようになったりしていましたので、当時の開発部長はすごく怒ってましたね。まあでも、それだけのことはやっていたよねっていう。

Q:しかも、『戦う人間発電所』なんてサブタイトルも付いていましたからね。

中本:ですよね。しかも、名前が『チェルノブ』ですから、今だったら会社ごと本当につぶされてますよ(笑)。あれはゲーム文化のなかにおいて、変な花を咲かせていたものでしたね。技術に関しても、吸収できることは何でもやらせてくれました。コピープロテクト対策で、結構当時はまだマイナーだったんですけどディスクハッカー、マジコンが当時あったんですよ、ゲームソフトをコピーするやつですね。で、マジコンはどんなものかと言いますとディスクシステムなんです。ソフトのデータをディスクシステムへ物理的に吸い出して、それを専用のRAMアダプターで再生するみたいなものまで出てくる始末でした。

最初はROMカートリッジを2個挿して、ただ単純に焼くだけでコピーできたものがあったんですけど、それはバンク切り替えチップをいろいろ変えたり、あるいは先程も言いましたように、他社さんではもういろいろなチップを作っていましたので、その全部に対応したものを作るのは物理的に無理ですから、これらのカセットは普通はコピーができないんです。でもマジコンは、その専用チップが載っているカートリッジが何か1種類あれば、データ部分を差し替えて使えちゃうという、もう手強いと言いますか、中国恐るべしみたいなものだったんです(笑)。

ディスクハッカーは多分国産なんですけど、ディスクを入れ替えることでコピーできてしまうのに、ディスクハッカー自身はコピーができないとか。そういうことがあった時には、私が中の仕組みとかを解析させられました。

Q:一時期、ファミコンソフトのコピー業者がほんの一瞬ですけどはびこって、マスコミに叩かれ出したら一斉にいなくなった時期がありましたよね。

中本:ええ。もうサーッといなくなっちゃったんですけど、その時には対策とか対応を、「バンク切り替えチップとかの解析もできるんだから、そういうのもできるだろう」ということで、プログラマーでも何でもなかったんですけどやらされました。ディスクハッカーは、ひと晩でディスクハックできるようになりまして、ディスクハッカーがコピーできない仕組みを特定しました。ディスクハッカー自身もコピーできるようになって、「こういう動きをしてましたよ。ここを見て動いてますよ」っていうことを報告して、「じゃあ、売り出しても大丈夫だね」とか言われましたね。もう本当に、全然関係ないないことまでやらされましたよね。「何だよこの会社、面白いじゃねえか!」って(笑)。

Q:しかも、まだ大学を出たばかりのお若い頃に重要な仕事を任されたわけですから、なおさらすごいですね。

中本:まだペーペーな、最初の3年間くらいはこき使われましたよね。今だったら三六協定に絶対引っ掛かりますね。徹夜なんて当たり前ですし、リリース前になったらもう泊まり込みで、カップ麺ばっかり食べるので太りましたね、その時は......。

Q:まさにそういう時代だったんですね。物の本とかにもよく書かれていると思うんですけど、そのような仕事の幅の広さですとか、自由さがあったのは中本さんだけだったのですか?それとも、ほかのデータイーストのみなさんもだいたいそういう目に遭っていたのしょうか?

中本:もう適性があれば、みんなそんな感じでやらされていましたね。

Q:すみません、たいへん失礼な聞き方で......。

中本:いえいえ。でも、本当にそうでしたね。適性があったら、あれもこれも何でもやらされました。「ゲーマデリック」は、当然サウンドチームの社員が中心でしたが、そうではないもの、例えば宣伝広告とかであれば、チラシを作るときのキャッチコピーを、もしうまい人が誰かいたら、そういう人たちがガンガンやったほうがいいよねとか。あるいはグラフィックの人が、グッズ用のデザインも作ってみたりとか、いろいろとやらされていたと思いますけど、私はちょっと特例だったかもしれないですね。でも、ここまで1人にいろいろやらせたら普通はダメですよね(笑)。

Q:でも、それは自由にいろいろなことができる社風があったからということですよね?

中本:そういうのは確かにありましたね。特に、営業の人員は足らなかったので、必要な時には増えて、日頃はそんなにいらなかったりする部署だと、借り出されたりもしましたね。ショーの説明要員とかを、開発の人間ばっかりで担当したりして。

Q:あるいは、コンシューマーの人数が足りなくなったら、業務用から人が借り出されたりたりとかしたのでしょうか?

中本:それもあることはあったんですけど、お互いに借りたくない、貸したくないという、業務用と家庭用とでそれぞれにこだわりがありましたね。家庭用は制限の中での究極を目指していて、業務用のほうは、今考えると自由でも何でもないんですけど、色数が何万色も使える中での究極を目指す。でも、声の出演とかになると、「こんな声が欲しい」と言われたら、もうそんなのは関係なしでマイクの前に立たせていました。私も立たされましたね。

Q:最後の質問になりますが、今から振り返りますと、ゲーム産業は日本ですごく大きく花開いたと思いますが、個人的な感想で結構ですので、なぜ日本でこんなにゲーム産業が大きくなったとお感じですか?

中本:まず基本は、やはりお客様が遊んだ時にどう思うか、どう感じるか。「こういう体験をさせてあげたい」「こういう気持ちに、もし自分がなったら楽しいな」という、日本独特のおもてなしの心が決定打なのかなと思っています。アメリカのゲームですと「ヘイ!俺、こんなの考えてみたぜ。ついて来いカモン!」みたいなのが割と多くて、「人もバンバン殺せるぜ、イェーイ!」みたいなものが突然売れたりとかしますけど。日本でも、確かにそういうゲームはあるのですが、基本的には「こういう気持ちになってほしい」「こうなったら楽しいよね」「こうなったらワーッと盛り上がるよね」ということを主体に考えるところが、ちょっと違うんじゃないかなと思っております。

それに加えて、ある程度の検閲機関的なものが、任天堂の初心会とかスーパーマリオクラブですか?
電通が始めた、ああいうような所で一定の評価をしたり。ウチは好き放題やっていたんですけど、行き過ぎた部分はそこでブレーキが掛けられていたんですね。その結果、アバンギャルド度が100のものを受け入れることができないお客さんにも、そこで「10くらいなら大丈夫」って薄められたりしていたんですね。

当時はプンプン言いながら、任天堂のダメ出しに答えたこともありました。例えば、『メタルマックス』で黒焦げの死体が出てくるようにしたら、「黒焦げの死体はダメです」って言われましたので、「じゃあ、普通の肌色の人間にしよう」と差し替えたら、「こっちのほうが生々しいじゃん」ってなったこともあったんですけどね(笑)。まあそんな感じで、とにかく言われたことをちゃんと聞いて直さないと出してくれなかったんです。でも、そういう表現上の注意とかは企画のなかにも徐々に浸透していきましたし、業務用でも『チェルノブ』で懲りたのか、その後はひどいものは出ていないと思います。

Q:『チェルノブ』の後も、データイーストからは良い意味でバカバカしい、面白おかしい演出を取り入れたゲームがたくさん出ていた印象はありますね。

中本:はい。『トリオ・ザ・パンチ』とかがありましたよね。あれを作った井伊さんという企画が、もう本当に天才か奇人かっていうような人間だったので、キャラクターとかがあんな感じになったんですよ。やっぱり日本では、みんな基本的なおもてなしの心を必ず持ってるんじゃないかなと。そこが他社さんも含めて、日本と海外のゲームとの一番大きな違いではないかと思います。

ハードが良かったとか、確かにそういう面もあったかもしれませんが、アタリのようにならなかったのは任天堂のお陰で、もう足を向けて寝れないのかなあとも思います。山内さんが何度も仰っていた、「ダメゲー、クソゲーが世の中にあふれかえっている。マルチメディアというものがあるのならば見せていただきたい」とか、名言をたくさん残されていましたよね。そういう考え方に、少なくとも当時ゲームに携わっていた者は耳を傾けたに違いないと。私もその1人でしたし、そこはもう間違いないのではないかと思いますね。

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