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中本博通インタビュー

前半:データイーストのゲーム開発の歴史

データイースト流のゲーム企画や開発の手順

Q:ラインがだんだん増えてきて、外注先ができたということでしたが、ラインを増やそうというモチベーションもあったわけですし、いろんな企画が上がってきたりということもあると思うんですけど、どういうプロセスを経て、出てきた企画が実際のラインに乗るような形だったんですか?

中本:まず、企画の種というのは、だいたいが喫煙所からなんです(笑)。喫煙所でタバコを吸いながら、「こんなゲームあったらいいんじゃない?」とか「こういうのやりたくない?」「こんなこと思ってるんだけど、どう思う?」というところからスタートしています。私がちょうどコンシューマーの企画をまとめていた時期は、定期的に企画会議を開いていました。そこでは進捗とか、そういうのはもうどうでもよくて、新しいメンバーが、次はどういうものをやりたいとか、どういうものを作るのかというアイデアを出して、例えば「近未来鬼ごっこ」のようなキーワードを1個決めて、簡単にペラ紙にまとめるような形でした。

で、どういうシステムにするのか、どんなことが面白いのかを出して、「だったら、もっとこうしたほうがいいんじゃない?」と話し合って、いくつかの実になるものをまずはキャッチアップします。その中から、「これはいけるかも」とか「これって今までにないよね」というものに関しては、いわゆる営業ですとか、社長へプレゼンするための準備資料を作成するフェーズに入ります。ただ、この時に、多分ですけど他社さんでは「前作は何万本売れて、いくらの上がりがあった」とかKPIについて触れたりすると思うんですけど、当時のデータイーストの風土では、開発はむしろ数字には触れない。おそらく業務用もそうだと思うんですけど、数字の話は一切出てこないんです。

それよりも、「このゲームはこんなに熱くて面白い。他社に対してこんなに優位性があるんだ、だから俺に賭けてみないか?」みたいな、もう完全に属人的でしたね(笑)。神谷さんと『大怪獣デブラス』のプレゼンをした時は社長、役員、そして多くの社員らの前で、2人してゲーム中に出す予定の踊りのシーンを踊ったんです。それだけ、どれだけ楽しくて面白いゲームなのかを、必死に訴えて企画を通したりしました。

ですから、データイースト独特のカラーっていうのは、会社のカラーというよりは、個人に依存したカラーが色濃く出る形になっていました。今思うと、営業の方は本当に大変だったと思いますね。「社長がやるって言ったから、もう売るしかないだろ」って、営業からすればすごい迷惑な話ですよね。営業の方が気持ちよく売れるように、こちらから営業のいる所に行ったりもしていました。営業の方がいる所には、資料がたくさんあるんですよ。各社から送られてくる雑誌ですとか、展示会で出回った資料とか、そういうものを利用してマーケティングの精査をするような企画会議に行って話を聞いたり、あるいは一緒に飲みに行って話を聞いたりして、そういう感覚を磨いたりもしていました。私から見て、そういうのが一番うまかったのは野島さんですね。

Q:野島一成さんですね。

Q:ええ。後に、『ファイナルファンタジーVII』とかを作った野島さんですね。彼は、特に営業とかに行ってキャッチアップするのがうまかった企画でしたね。逆に、営業とかにも一切行かなくて我が道を突き進む、もう「ゲーム道」みたいな自分で極める感じでやっていたのが渡辺さんという企画で、『サイレントデバッカーズ』とか、すごい特殊過ぎて「マニアでもちょっとできねえよ!」というようなゲームとかを作る、いろいろなタイプの企画がいました。

そんな企画のメンバーたちの個性というのが、最終的には会社のカラーになっていったのかなと思います。今の企業では考えられない、KPI無視のやる気重視で(笑)、俺を信じろ型の開発でした。マーケティングの真似事みたいなものも、ちゃんと勉強しようということでいろいろなポジショニングマップを作ったりとか、今いるお客さんを、「この象限からこっちの象限に引き上げるためには、このタイトルを出すんだ」みたいなこともやったんですけど、それはあくまで自分の話を聞かせるための説得材料として使っていたので、本気でマーケティングをしたと言うよりは、自分の企画を通すためのツールとして利用していたというのが実態ではなかったかと思います。

Q:データイーストでは直営店、つまりゲームセンターをマーケティングに利用しなかったのでしょうか?

中本:ウチは直営店が1、2店舗しかなかったので、そこまでの力はなかったですね。私が入社した時でも2店舗しかなかったですし、どちらも後に閉店しちゃいましたので。

Q:企画を実際に出して、ものを作るときって、例えば、シナリオとかあるじゃないですか?
シナリオは、企画を提案した人が個人的に完成させていくのか、それともいわゆるチーム的、集合的な考え方でシナリオを完成していくのか、どちらなのでしょうか?

中本:結論から言いますと、タイトルによってまちまちですね。例えば、『ヘラクレスの栄光II』では、最初は別の企画の人間がやっていたんですが、「いまいちだね」という話になって、後から野島さんが「面白くしてよ」と言われて手伝うようになったりとか、そんな形で作ることもありました。先程もお話した『探偵神宮寺三郎』とかも、シナリオをこちらで分解はするんですけども、元のシナリオの良さを生かして、ゲーム的に分解するようなコントロールを企画のほうではしていましたね。

逆に、『ダークロード』とかは企画担当だった巌さんが一所懸命作ったりしていました。ご存知のように、野島さんはシナリオ制作の能力がすごくて、面白いものが作れましたね。『ゴルフ倶楽部バーディーラッシュ』の、ロボットのようなおばあちゃんが出てきて、「わたしロボットなのよ、はは」とかいうセリフとか、PCエンジンの「アツクテシヌゼーー!」みたいなセリフとか。

Q:そのPCエンジンのゲームは、『ならず者戦闘部隊ブラッディウルフ』のことですね。

中本:はい、そうです。『ブラッディウルフ』とか、野島さんがシナリオを書いてたっていうのが、そういう部分は、会社っていうより、野島色がいろいろなタイトルで当時は出ていたっていうことですね。だから、かなり属人的で、今の企業では絶対許されないですよね。「これはこいつしか作れない」という感じになっていました。

Q:それと関係すると思うんですけど、例えばゲーム作る時のチームは、どのように形成しているんですか?

中本:例えばグラフィックは、基本的にグラフィックチームでまとめている者がいて、何人必要なのかを考えて決めます。納期が長ければ少なくするし、すぐ出さなくちゃいけないとか、持ち込み企画だったら全力でやらなくちゃいけなくなります。『メタルマックス』では、もうほぼ総動員でやろうとか、プロジェクトによって当然プログラムのほうも当然プログラマーをまとめる人がいて、「とにかく敏腕の人を突っ込もう」とか、「これは敏腕が1人、新人2人でもできるよね」とか、その辺は各セクションのとりまとめの者がだいたい決めますね。

Q:つまり、仕事のプロセスとしてはまず企画、シナリオがあって、「こういう感じにしよう」っていうのが決まってから、グラフィックならグラフィックだけのチームを作って開発が始まるということですね?

中本:それができれば一番いいんですけど、だいたいシナリオが完成していない時期から走り出すので、どの程度の規模になるのかだけを決めますね。

Q:シナリオも並行しながら作っていたんですか?
中本:そうです。なので、物によってはシナリオ待ちの時間は別の企画をしなくちゃいけないんです。とにかく、数に対して人が少なかったので。

Q:つまり、部署とプロジェクトとの両方に所属するような形におそらくなっていたんですね?

中本:はい。そういう形になりますね。

Q:すると、部署に対する帰属意識はそんなに強くはなかったということですか?

中本:いいえ。作っている時は、企画は実質ディレクターかつプロデューサーの役割をする必要があって、例えば「音楽はどんな曲にしたいのか?」という話になると、先程も言った酒井さんに企画が相談するような形でやっていました。でも、どうしても大きなタイトルになると、部署よりもプロジェクトのほうのつながりの方が強くなっちゃうので、私が実は一番反省しているのは、『メタルマックス』なんですね。

先程お話した、『メタルマックス2』以降は初期から投入された都合上、全員プログラムとグラフィックは社内のスタッフでした。企画組はすべて外部の人間でしたが、社内で専有して仕事をする場所の確保がなかなか難しい時期がありまして、近所の安いマンションと言うのもほど遠い、ボロアパートみたいな所を拠点にしていました。何かあった時は、私がそこに行ってずっと話をしなくちゃいけない、シナリオを作るための管理をしなくちゃいけないなどとやっているうちに、企画のまとめがかなり難しくなってしまった時期もありました。

その時には、ほかに企画をまとめられる人が、社内の人間で後に『探偵神宮寺三郎』シリーズをずっと続けることになる西山英一さんとかに、そういう部分を受け持ってもらうような感じになってきました。なので、一旦は小さいプロジェクトで始まったのが大きくなったのをまとめてはいたんですけど、逆になぜかプロジェクトに引き戻されることになったんです。それ以降は、プロジェクトを立ち上げたりとか、あるいは何かあった時に、「これはどうする?」みたいなかとを考えて進める仕事が増えていきました。

Q:この流れで、『メタルマックス2』以降は、企画が外注になったということですか?

中本:いいえ、企画はむしろ内製です。すでにこの時期から、残念ながら新規シリーズが逆に立ち上げにくくなっていましたね。それまでは割と好き放題に、もう何でも製品化できたんですけど、その頃になるとファミコンブームが一段落しまして、新ハードが出るとその開発費がファミコンの比じゃないくらい掛かるようになったんです。

主にグラフィックを作る費用がどうしても掛かってしまって、グラフィックを作るだけで容量の半分以上を使って、しかもそのほとんどが雑誌媒体とかでみなさんが実際に目に触れる所になるわけです。ゲームって、実際にやってみないとわからないじゃないですか?ですから、グラフィックにどんどん力を掛けるようになって、人件費がかさんじゃうんです。

Q:先程もお話されていた外注というのは、主にどういったプロセスの外注なんですか?

中本:プロセスの外注は、繰り返しになりますが、プログラマーが圧倒的に足りなくて、その部分を外に借りるということが多かったですね。しかも、こと新ハードとなるとハードの解析段階からやらなくちゃいけませんので、そのハードの経験がある方に頼んでやっていただいたほうが、コストパフォーマンスが良いということもありました。やはり、どうしてもKPIを無視できなくなるという形になりますので。ですから、企画は『メタルマックス』は外からの持ち込みでしたが、それ以外は逆に中で磨くという形になっていきました。

Q:外注のお話とは逆の形になりますが、データイーストのゲームをナムコットブランドとしてファミコンソフトで出せるようになった経緯とかは、何かご存知ですか?

中本:以前から、単に社長同士の仲が良かったとしか聞いていないですね。現に、その後にナムコからも人が来ましたし、セガからも人が来た時期っていうのはありましたね。結構、いろいろな会社の方の出入りがあって、下のほうは出ていく一方で、上のほうでは入ったり出て行ったりっていうのが、当時は割とよくありましたね。

Q:例えば、『カルノフ』とか『ドラゴンニンジャ』はナムコから発売されましたよね?ナムコットブランドで出たことに対して、開発の方が「え、なんで他社ブランドなの?」などと反発するようなことはなかったのでしょうか?

中本:いいえ。それはもう、出せるチャネルがあれば、それこそいくらでも出したかったですよね。ほかにも、『サイドポケット』とかも出しましたよね。

Q:ビリヤードのゲームですね。

中本:そうです。それも全部社内で作っていたんですけど、1年間に出せる本数が3本とかに制限されていましたので、それ以上出したい時は、ナムコさんの力を借りる感じでしたね。

Q:『バーガ―タイム』とか『カルノフ』も、テレビCMも当時ナムコが流していましたよね。

中本:それから、『タッグチームプロレスリング』とかもそうですね。

Q:
『タッグチームプロレスリング』も、元はデータイーストのアーケードゲームでしたよね。

中本:ナムコさんは特殊チップを持っておられたので、私は入社当時からファミコンがもう好き過ぎてしょうがなかったんですけど、ハードウェアをたまたまやっていましたので、バンク切り替えチップですとかを、他社さんがオリジナルで作られていたのがわかっていたんですね。任天堂さんのほうでも、途中からMMC1とかMMC3とかを作って共通化していったんですけれど、それまでは各メーカーが勝手に作っていた変な時代がありまして、その頃は他社さんのバンク切り替えチップの動作を個人的な趣味で調べていたんです。

ですが、「会社でもそれをやっていいよ」と言っていただけたので、会社でも解析をして、「このソフトチップは、ポート通った時は、バンクはこういうふうに切り替わるのか」とか、いろいろと調べたりしていました。元々ROMカセットであったソフトをディスクシステム用ソフトにする時には、実は何の改造もせずにできるソフトがいくつかあることを突き止めたりとか、そんなことを調べさせてもらえる時期がありました。

例えば『カルノフ』は、部分スクロールと言って、下のほうはが切れているけど、上のほうは上下左右に動くようになっていました。他社さんでも、バンダイの『ポケットザウルス』とかでは部分スクロールを使っていましたので、「他社でできるんだから、うちでできないわけないじゃん、頑張って!」ってプログラマーに言って、出来上がったら「やっとできました!」「おー、すごいすごい!」とかって話をしましたね。でも、後で念のためチップを解析したら、部分スクロールがハード的にできることがわかったんです(笑)。つまり、私はプログラマーにすごい大ウソをついてだましちゃったんですね。

Q:本当は仕様で入っているのに、こっそり作らせちゃったんですね。

中本:でも、ちゃんと実現できましたので、「あのプログラマーはすごいや」「彼はすごい能力の持ち主だよ」って、お詫びに周りに触れ回ることで許してもらいました(笑)。まあそんな失敗とかがいろいろとありましたね。すみません、また話がそれてしまいました……。

アーケードゲームの開発も担当

Q:中本さんは、アーケードゲームの『強行突破』と『ダーウィン4078』の開発も担当されたそうですが、そもそもアーケードゲームの開発を担当するようになったのはなぜですか?

中本:多分ですが、後で聞いた話では大学の工学部卒の人は、もうほぼ選択肢がなくてハード部門の配属になったからだと思います。。その理由は、やはり当時の文化でもあったコピー基板問題。コピーされてしまうと、莫大な開発費を掛けたものが、あっという間に自分の所に1円も入らず広まってしまうっていうのを何度も経験しまして。まあ業界全体がそうだったとは思いますけど。

コピープロテクトチップの設計とか、CADを使えてチップを制作してもらえる会社さんのデザインスタジオに、もうほとんど泊まりこみに近い状態で、ずっと通い詰めになってCADで設計したりするような、そういう知識とか忍耐力が必要だということから、工学系男子は強制的にハードウェアをやるみたいな文化があったようです。私とかも、なぜかそれに組み込まれちゃってたので、いきなりはんだ付けからスタートっていう感じでした。『ダーウィン4078』の元になったのは、実は『強行突破』の基板で、『強行突破』の基板と『ダーウィン』の基板は、同じなんです。

Q:つまり、『強行突破』の基板に『ダーウィン4078』のROMを差し替えるだけゲームが動くんですね。

中本:ROM交換とプロテクトチップの変更だけで動くんです。その元設計を、先輩が行ったものを調整して出したんですけれども、私のミスでその基板のロケテスト中には、基板の上にうまくいかないところをパターンカットして線を飛ばす、ジャンパーが100本も飛ぶ、100本ジャンパー基板になっちゃったんですね。

そのジャンパーが、移動中に切れてしまわないように樹脂で固めたので、もうROM交換は不可能な状態になってしまいました。後で工場から、「もうあれはひどかったね」「お前がその責任者か?」って苦情を言われるような、ちょっとした思い違いでそんな基板を作る羽目になってしまいました。「もう千葉工場のみなさんごめんなさい」と(笑)。
そんなことがありましたので、その2つは思い出深いです。ジャンパーが途中で切れて、「わかんないから直せ。お前しか直せないんだから、悪いけど来てくれる?」って、日曜日の深夜にプログラマーから自宅に電話が掛かってきたこともありましたね。

Q:中本さんが開発に関わられたアーケードゲームは、『マジカルドロップ』を作り始めるまでの間はこれらの2タイトルだけですか?

中本:はい。『マジカルドロップ』のアーケード版で私がやったのは、どちらかと言えばルール調整のほうで、この時はハードウェアには一切触っていないですね。実は『マジカルドロップ』のコンシューマー版は、一旦開発を止めた時期がありました。『マジカルドロップ』は、自分でやらないと進まないパズルで、例えば『テトリス』はずっと受け身で進んでいきますが、「これを受け身にしていくのは、かなり難しいよね」ということで、コンシューマー版は業務用と並行して開発するのは一旦止めて、やがて別のタイトルのほうの優先度が上がってしまいましたので、実質的に立ち消えになってしまったんです。
逆に、業務用のほうの開発はすごく頑張ってゲームを仕上げる流れになりまして、それができたのを受けて、コンシューマーにも移植をしましょうと。それだと確かにお金もかからないし、版権も一緒だからということで。

Q:ハードがネオジオでしかたら、家庭用にもアーケード版のソースをそのまま持って来れますしね。

中本:そうです。そのとおりです。コンシューマー版の『マジカルドロップ』は、サターン版とプレステ版を出す時に私が担当になりました。そこで、どうしてもやりたかったのが、サターンとプレステ版を出すにあたって、初代『マジカルドロップ』と『2』はゲーム性もキャラも違うけど一緒に出すことでした。

『マジカルドロップ』のキャラクターデザイナーと、『マジカルドロップ2』『3』のキャラクターデザイナーは別の人で、その2人が作った『マジカルドロップ』を同じものとしては扱ってくれなくて、一緒に商品化するのがとても難しかったんです。最初の『マジカルドロップ』のプログラマー、グラフィックデザイナーのつかぽんさんという女性の方はもう退社していましたので、確か『2』と『3』のキャラデザインは竹内さんでした。それでも、私は絶対に一緒に出したかったので、2人を何とか説得して同じタイトルとして出す許可をもらいました。すごく辛かったんですけど、実現した時は小躍りするくらいうれしかっですね。

Q:『マジカルドロップ』がシリーズ化したということは、第1作目の評判がよかったから続編も出そうということになったわけですよね?

中本:そうですね。2作目はポップなキャラになりましたが、1作目のキャラとはもう真逆で、1作目のキャラはアバンギャルドと言いますか、何かシュールな感じなんですね。「それがいい」と言うファンももちろんいたのですが、『2』以降のアニメキャラに近いデザインのほうが一般受けはすごくよかったので、一番最初のデザイナーは当然面白くなくて、「もうやめた」みたいな流れになっちゃったんです。

それから最初の時には、タロットカードのノベルティグッズを作ったり、どちらのキャラも使えるようになったので、その後にはトランプを作ったりもしました。その頃は、そういう売り方も工夫できたので面白かったですけどね。データイースト末期の、最後の花火のひとつかなという感じでしたね。

Q:データイーストでは、専用筐体を使用したアーケードゲームも出していましたが、生産あるいは量産する際は荻窪近辺にあるどこかの工場を利用していたのでしょうか?

中本:いいえ、設計は社内で、生産は千葉工場でやっていました。筐体の担当は課長と課員の2人しかいなかったのですが、2人とも仕事をマルチでこなしていました。筐体もいろいろありましたね、例えばレーザーディスクゲームの筐体とか。

Q:エレメカとか、占い系の筐体ものも出していましたよね。

中本:はい。そういうジャンルを2人で生み出していましたね。

Q:それから、『プリクラ』ブームの頃には『スタンプ倶楽部』も出しましたよね。

中本:そうですね。『スタンプ倶楽部』懐かしいですね。これを考えたのはグラフィックの女の子なんですけど、「すごかったから」ということで賞を受賞してましたね。「顔写真がスタンプになったら楽しい」みたいなことから実現した、女の子ならでは企画でした。あの時は、社内での女性の地位がすごく上がっていきましたね。

Q:人の出入りがあったというお話がありましたが、データイーストはそういう会社だったんですか?新卒が入って、データイーストで腕を磨く会社なのか、あるいは上も下も中途で出入りがあるのか、どちらでしたか?

中本:どちらかと言えば、新卒はずっと採ってはいるんですけども、育つと旅立っていくような学校的な感じでしたね。

Q:先程も、人材輩出会社だって仰っていましたね。

中本:ええ。ちょっと良くないことなんですけど、育てた人間のなかで恩義を感じて残った人間は、私を含めて割と少なかったですね。私も、最後には逃げるような形で辞めてしまったんですが。途中から入ってくる人も実はいたんですけど、それは教育をしたうえで入ってきたという形でした。それはどういうことかと言いますと、サテライト構想というのを当時の会社ではやっていまして、札幌サテライトとか福岡サテライトとか、データイーストの支部を作ったんですね。

そこには新人もいましたが、やる気のある中途が集まって、「ゲーム業界に入ってみたい」っていう人を育てて、もしいい人がいたら、すぐに地方で働けるならそこで使って、そこでは無理だったら東京に来てもらって、「社宅を貸すから、ここで作ってね」という形でやっていました。そのうちの1人が野島さんですね。データイースト卒の中では、彼が一番儲けていると思いますが、彼は札幌サテライトの出身で、上京して「東京って怖い所だね……」みたいなことを言ってましたね(笑)。

Q:そのサテライトは、いつ頃に作られたのですか?

中本:何年だったか……ちょうど、コンシューマーとアーケードの部隊を補強しようかっていう頃ですね。どちらかと言えばコンシューマーが中心で、営業所だった所に開発を養成するような仕組みを作ろうっていう取り組みだったと思いますね。福岡サテライトからは優秀なプログラマーがたくさん出てきましたので、「そうか、考えるのが得意なのは北海道で、体を動かすのが得意なのは福岡なんだね」と。まあ、プログラマーも頭を使うんですけど(笑)

Q:当時から、九州ではソフト産業が盛んでしたしね。

中本:それもあるかもしれないですね。すみません、もう気分で話しちゃって……。

Q:サテライトについては、先程から何度も仰っているように、データイーストでは企画はあってもそれを実行する人が足りない状況があったので、中本さんがそういう仕組みを整えていったっていう理解で宜しいですか?

中本:いいえ、当時の上司ですね、進言したことはありますが。せっかくネタがあるのに、開発体制がないから作れないという残念な思いはもうしたくない。だったら、とにかく層を厚くしようと。東京だけに固執していたところで、東京だと逆にいい人はもっと売れてるゲームメーカーに行く道とかがいくらでもありましたので。

Q:86~87年くらいになると、競合するメーカーもいろいろと出てきていましたしね。

中本:はい。だったら、元から土地勘のある営業が駐在している営業所で、その土地ならではの人とか、またはその土地から遠くには行けないけど、やる気のある人を育てようじゃないかというようなサテライトコースでした。確か、仙台にもサテライトがありましたね。正社員化するための面接に私も出張してやっていました。

Q:会社の最盛期には、社員は何人くらいいたんですか?

中本:100人そこそこだったと思います。特にグラフィックは、アルバイトの方がとても多くて、プログラマーはアルバイトよりもプロパーの方が多かったですね。企画は、デバック担当でアルバイトだった人間が実は企画もして、やっぱりゲームをたくさんやっているので、「面白いゲームのネタを考えてよ」って言ってプロパー、社員化した例もあります。すみません、この辺の事情は、私はあまり詳しく知らないです。

ファミコン名人ブーム期の業務内容

Q:いわゆる、ファミコン名人ブームの時期がありましたよね?
当時のブームはどういうものだったか、改めてお聞かせ願えますか?

中本:ファミコンが出てから、任天堂の名前はみんな知ってるんですよ。ハドソンやナムコさんの名前も、早期に参入した所は知られていましたし、ゲームセンターに行く人だったら、ハドソンはわからなくてもナムコはわかるし、パソコン用ソフトを遊んだり、PCで自作プログラムを作る人はハドソンを絶対に知っているという、そういう知名度があったと思うんです。

ところがデータイーストとか、それから、詳しくはわかりませんがジャレコやアイレムさんとかも、業務用ではそこそこの中堅だったんですけど、「世の中の人は知らないよね。ゲーセンに行ってた人でも、メーカーの名前までは知らないよね」っていうなかで、「自社のソフトを売るにはやっぱり、会社のソフトを売る顔となる人がいるよね」っていうような流れでした。一番最初に始めたのは、何と言ってもハドソンの高橋名人で、それからバンダイの橋本名人、このおふたりが双璧でした。高橋さんはプロパーの社員ということで、どちらかというと他のメーカーの方というよりは、ウチを含めて社員中心が多いなかで、橋本さんはバンダイの社員になる前は、確かアニメの仕事をされてましたよね?

Q:橋本名人は、学生時代にアニメ雑誌の『アニメージュ』の編集部でアルバイトをしていたそうですね。

中本:その仕事をされていた方が、後にバンダイに移って名人という形になったので、スタートとしては高橋名人が最初なのかなと思います。高橋名人の遠く足元にも及ばない我々としては、週に1回のファミリーコンピュータ関係の番組だった『ファミっ子大作戦』、後に『ファミっ子大集合』と名前が変わっていったんですけれども、それにウチとしてもスポンサーをすることになりました。番組はアルファ企画という所の制作で、メーカーからのルートでも出られるっていう座組みがあって、他社さんも多分同じような感じでやっていました。

シーケンスとしては、我々はメーカーの人間でしたので、収録の時間はそんなに取れないんです。なので、月に1回の収録で、翌月分もすべて撮っていました。でも、ソフトは生ものみたいなものなので、その段階では発売できる状態にないものも、発売予定にはなっていたりしました。そういう場合は、見えない所はみんなROM基板がむき出しの機材を使ったりして(笑)。それで子供たちに、「このゲームは、こんなふうに遊ぶんだよ」とか、そういうことは台本には書かずに、全部一発で本番みたいな感じで撮っていましたね。

そういうことをやっていると、「テレビで見たやつだ」とか、「これ知ってる。このメーカー好き」とかいうのが、徐々に形成されていったんですね。逆に、今では個人情報保護法やら何やらでいろいろと難しいのかもしれませんが、まだ当時はおおらかな時代だったので、ビデオにわざわざ撮っている人もいなかったので、まあいいじゃないのかなあと。そこで何が起こっても放送前に撮り直しができますし、宣伝媒体としてはやっぱり大きいよねと。

ごくまれにですけど、ゲームショウとかの場で実演をしてあげたりですとか、軽いファンサービス程度のことをしてあげるっていう、メーカーさんにはよっては、そういうやり方もしていました。今だとYouTubeとかで簡単にできる時代になりましたが、実際に制作者が出て行って話をした方が早いですし、今では実際にそうなっちゃっていますけど、当時は代表の顔が必要だったんです。

あと、もうひとつの背景は、メーカー側が開発者の引き抜きを恐れていました。例えばセガさんでは、いろいろな筐体のゲームとかをテレビで特集する時に、制作者も一緒に説明のために出るんですけど、全員がサングラスを掛けているんです。覆面状態で、名前も出しちゃいけないっていう時期がありました。ウチの会社でも、一時期そういうことが実際にありまして、途中からはやめたんですけども、名前は必ずその人に準じた仮名、いわゆるハンドルネーム的なものを作って、エンディングには仮名を入れてもいいけど実名は出さないようにしようと。あるいは、エンディング自体を出さないようにしようということで最初はやっていましたね。

でも、「引き抜きがなくても出て行く人は出て行きましたし、ずっといる人はいるんだから、それじゃあ意味がないよね」ということで、途中から「このソフトは、私の責任によって作りました」ということで、実名を出すようになったんです。他社さんでも同じ流れだったでしょうね。

Q:データイーストでは、昔からアーケード版でも『ダークシール』など、エンディング画面に漢字でフルネームのスタッフロールが出てくるタイトルがありましたよね?昔はみんなアルファベットでイニシャルとか、仮名をちょっとだけ出すのが当たり前でしたが、『ダークシール』ではサウンド担当の吉田さんも、フルネームで吉田博昭と出ていましたが。

中本:そこはまあ、元々目立ちたがり屋な人がゲーム作ってることが多かったですので。

Q:だいたい何年くらいから名前を出すようになったんですか?

中本:ファミコンだと、『ドナルドランド』辺りの時代から、版権元とかを実名で出さなくてはいけなくなりましたので、そうなると「自分たちだけが、実名を出さないわけにはいかないね」となった辺りからですね。もう引き抜きとかがあってもいいでしょうと。

Q:80年代の終わりくらいから、名前を出すようになったということですね。

中本:ええ。セガさんとかでは、鈴木裕さんみたいな方がもう実名でガンガン出てきていましたから。

Q:90年代に入ったくらいから、スタークリエーターのブームが始まりましたよね。

中本:その辺りからでしょうね。それまでは、引き抜きがあるとやっぱり何よりも困る。だけど宣伝はしたいっていう苦肉の策でした。

Q:90年代はテレビのプロモーション、広告を打つことが重要になりましたけど、80年代の頃は雑誌ですとかメディアの使い方は、それ以外はどういうものがありましたか?

中本:メディアですと、ウチがたまたまやっていたことで言えば、例えば私がコレクターでもあったと言いますか、ファミコンが大好きだったのでファミコンとかほかのゲームも集めていて、アーケードゲームも好きで遊んでいたのですが、基板は高いから買えないと思っていたら、ある時期になってファミコンとかコンシューマーの部署に移ってから、アーケードが欲しくなりまして。で、ゲーム雑誌を見たら中古基板の広告が載っていたんですよ。

Q:昔のゲーム雑誌には、基板屋さんがよく広告を出していましたよね。

中本:そうなんです。それで、基板がめちゃくちゃ安いことに気付いてしまったんですよ。当時はバイク通勤で、都内ならどこにでも行けましたので、じゃあ自分の正体を最初は明かさずに、とにかく行ってみようと。それで、いろいろお話を聞いてみると、秋葉原と同じでまとめて買うと安くしてくれるし、すごくお願いすると安くしてくれることに気付いたんです。もう古くなっていたけど、私が大好きだったナムコの『ゼビウス』とか、『スペースインベーダー』の3枚組の基板とかをかなり安く、2,000円とか3,000円とかでどんどん買いましたね。

それで、「ファミコンソフトは4,000~5,000円もするけど、アーケード基板は2,000~3,000円で買える。だったら、じゃあ本物のほうがいいや!」って思いまして、会社の帰りには常にバイクの後ろには基板を載せて走るような生活が始まりました(笑)。壊れているものとかは、「タダで持っていっていい」とか言ってくれることもありました。元々ハードウェアの仕事をもやっていて、しかも解析をするのが好きでしたから、持って帰ってから家にあるテスターで調べてみたら、「あ、これはファミコンを業務用で15分間遊べる基板だ!入力じゃなくて、LEDの『あと何分』という7セグの出力のここにある!」と気付いたこともありました。

それから、すごく親しくなった基板屋さんでは、コンプライアンス的に問題があるので正体は明かせなかったのですが、基板の修理とかも「これとこれを抜けばいいだけだよ」とか言って、その場で直してあげたりして夕食をごちそうになったりとか、そういうこともやっていました。まあそんな流れで、宣伝担当が雑誌に私のことをリークしたらしく、『ファミ通』とか『マル勝』とか、『ファミコン必勝本』とかで「ゲームコレクターの写真を撮りたい」と言われまして、実家に集めたソフトとか基板とかをばーっと並べて、そこの真ん中にいるような写真とかを撮って、「『こういう変わった人がデータイーストにいるよ』みたいな宣伝をしたい、会社の宣伝だと思って受けてくれと」言われたこともありました。でも、それってコレクターから言うとすごくつらいんですよね。全部箱から出して、終わったらまた全部箱に戻すとか、そのたびに傷んじゃうし、説明書はどっかに行っちゃたりするんですが、喜んでもらえるんだったらまあいいかなあと。

で、3誌くらいに、ちょっと恥ずかしい写真が載りました。そのうち、ひとつ残ってるのが『ファミ通』で、「中本博通」でネットで検索すると今でも出てくる、変なゲーム機とかを抱えた写真が、もう消えたと思ったらまた復活したりして、それだけはなぜかネットの狭間で漂っているんです。その時の恥ずかしい、雑誌媒体を利用してた時の忘れ形見ですね。
それからもうひとつは、先ほどご指摘があったように裏技なんですね。売れなくなった時に、もう一度火をつけるために裏技をわざと出して、またこのソフトに注目してもらおうっていうことですえ。実は、神谷さんと作った『大怪獣デブラス』には、「きっと『メタルマックス』のほうが売れてこっちは売れなくなるから、売れない時代が来た時にすげえことができるように」ということで、ゲームをもう1個入れおいたんです。

このゲームは、デブラスという怪獣を避けながら卵を運ぶシミュレーションゲームなんですが、要は自分が怪獣になって相手のユニットを壊しまくれる、自分が怪獣になれるモードが実はあったんです。「それも最初から入れようよ」って初めは言っていたんですが、「いや、売れなかったときの保険で入れよう」という話を神谷さんとしたのですが、隠しコマンド難しすぎて、2人とも覚えていないんです。

Q:それだと、もう誰も再現できないですよね?

中本:ネットに解析してくれた人が誰かいないかなあとも思いますが、マイナー過ぎて誰も解析してくれなくて。自分でそのモードを遊びたいんですけど遊べないっていう、自らの策にはまって世に出なかった例になってしまって(笑)。

Q:ごく簡単なコマンドだったら、自力で探し当てる人がいたでしょうけど、難しいコマンドにした結果、誰も再現できなくなったというのは、今となっては面白いお話ですね。

中本:それで、広報からも「お前は何やってんの?」って言われてしまいました。

Q:あらかじめマーケティング的な意図を持って、二枚腰と言いますか、「1粒で2度おいしい」みたいな楽しみ方ができるモードを入れていたんですね。

中本:ええ、意図的に入れていましたね。そのほかにも、ゲームショーとかでノベルティを作ったこともありました。そうすると、なぜかジッポーとかが売れるんですよ。ゲーム業界の子供向けなのに、ジッポーにいろいろなロゴを入れたり、キャラクターを掘ったりしたものが売れたんですよ。

Q:データイーストですから、『探偵神宮寺三郎』シリーズの人気があったのでジッポーが売れたのではないでしょうか?

中本:そうかもしれないですね。確かに、このシリーズは売れましたし。

Q:「名人」というのは、要はメディアミックスですから今のYouTuberぽいですよね、そのようなプロモーションをするということで。

中本:そうなんですよ。あんまり見られない、週に1回だけしか見られないYouTuberですよね。

Q:名人としてのお仕事とは違いますが、データイーストのゲームミュージックバンド、「ゲーマデリック」のメンバーに中本さんも誘われていたのでしょうか?

中本:いえいえ、私の音楽性とか演奏技術ではとてもとても……。

Q:シンセ担当としてメンバーに入れなかったのでしょうか?

中本:いやいや。もうその頃は、シンセはデジタルの時代でしたから、どちらかというと楽器で、音で驚く時代はもう過ぎていていましたので。私がシンセで本当に人を驚かせたのは、高校時代の学園祭ぐらいだったと思います。その時はみんなよく知らないけど、ステージですごいことが、何だかよくわからないことが起こってるみたいなこととかもできたんですけど、もう音楽的には古くなっていたと思います。

Q:一時期、各メーカーが結成したバンドによるゲームミュージックライブが流行したことがありましたが、こちらのほうには全然関わっていないんですね?

中本:そうですね。サウンド部屋に行って、遊び程度でちょっとギターを弾いてみたりとか、サウンドチームの人から飽きた古い楽器を安く売ってもらったことはありましたけどね。

Q:音楽は、あくまで趣味の範囲関わっていらっしゃったということですね。

中本:趣味の範囲でしたね。ですから、去年やった「ヘラクレスの栄光」シリーズのサウンド座談会に出た時も、「俺サウンドじゃないよね?」ってみんなに言ったのですが、「いやいや、サウンドですよサウンド」って言われちゃいまして。サウンドチームのみなさんとは、麻雀仲間でもありましたね。酒井さんとか濱田さん、それからMR☆K(みすたけ)木内さんとか。

Q:元電撃ネットワークの木内さんですね。

中本:そんなつながりがあったので、セガに濱田さんが移籍した時も、セガの保養所に我々もなぜかいたりして。でも、学生時代のそういう遊びは、やっぱり役に立つなあと。やっぱ、大学生は遊ばないとダメですよ。生意気で遊び好きのほうが、今まで楽しく過ごせるんじゃないかなと思います。すみません、また話がそれちゃいました(笑)。

改めて振り返る、データイーストならではの社風

Q:今のお話を聞いていますと、昔は引き抜きを恐れていた時期もあったけど、ナムコとの関係とか、そうやってセガさんにも出入りができたのは、データイーストでは企業間の垣根が低かったからということですか?

中本:それもあったと思いますね。業界では割と古いほうですが、元々ウチから見ればセガさんは大手、ナムコさんは超大手で、タイトーさんとかも雲の上。社長はそう思っていなかったかもしれませんが、少なくとも現場はそう思っていて、データイーストのポジションは業界内では最弱だったと思っていました。でも、「変なものを作れば自分たちが最強」みたいな、そういうこだわりはみんな持ってたんじゃないかなと思います。

Q:ゲーム会社は、別に閉鎖的ではないけれども、昔はそれほど他社とのやりとりはしないイメージが強かったのでが、今日のお話を聞いてると開発する人、企画レベルとかではかなり交流があったようですね。

中本:はい、結構ありましたね。その辺はおそらく、当時の社長の福田さんや営業部長の人脈があったのかなという気がしますね。

Q:社員の皆さんのほうでも、入社退社じゃないやりとりとかも結構あったんですね。

中本:まあ、そうですね。どちらかと言えば、入ってくるのは外注さんで、ウチにずっと滞在しているとか、「企画担当者が、あの部屋をずっと占領してるぞ」みたいな、そんなイメージですね。

Q:外注さんが「滞在している」と言うのは、データイーストの中にずっといて仕事をしているということですね?

中本:はい、そうです。

Q:90年代のゲーム業界は、外注と言えばラインを1個外に借りて、1本のラインの仕事をまるごと投げるような使い方がイメージとしては強いのですが、今日のお話を聞いていますと、必ずしもそうではなかったんですね。

中本:全体プロジェクトの一部をアウトソーシングするものが多くて、最初は企画を自分たちが主体でやっていたのが、逆に企画だけをアウトソーシングして、制作陣は中で全部でそろえるようになっていきました。まるごと外に出しているものもなくはないんですけど、すごく少なかったです。丸投げに近かったのは、『ドロップロックほらホラ』というゲームがそうでしたね

Q:PCエンジン用のパズルゲームですね。

中本:はい。落ち物パズルゲームの国内版で、「『マジカルドロップ』的なものをひとつ作ってみようか」ということで始めて、私は行程管理とかもやりましたが、向こうに企画の方もプログラマーもほとんどの人がいましたので、これについては進捗の確認をやっていたという形でした。多分ですけど、私も中の人だったということで、スタッフロールに私の名前も、はっきりとは覚えてないんですけど出ていると思います。これはほぼ外だけで作ったもので、あとは『パチンコグランプリ』とかもそうでしたね。

Q:ファミコンのディスクシステム版のパチンコゲームですか?

中本:ええ。それはマリオネットさんという会社で、ほかにもパチンコソフトを、確か『パチコン』とかも作っていました。

Q:TOEMIランドが、ファミコンで発売したパチンコゲームですね。

中本:TOEMIランドだったですかね。それも確か、大元のゲームを作った自社では出してはいなくて、大元はマリオネットさん。パチンコもの、いろいろな跳ねものとかのシミュレーターを作られてたんですけど、おそらく発売できるネタはたくさんあっても発売できる所がなかったという、ウチのものをナムコさんで出していたのとは逆パターンだったんですね。じゃあ、ウチからもパチンコ的なものを出してもいいんじゃないかと。安かったこともありましたしね(笑)。

私がプロデュースでしたわけではなかったのですが、ゲームを見るうえで「お前ら、もっとパチンコやってこい。そこで打ってこい」って、なぜか私ともう1人くらいの担当者が当時の部長から言われたんです。

Q:業務命令で「打ってこい」というのは、すごいお話ですね。

中本:意味がわかんないんですけどね。まあ要するに、「パチンコ店を知ってこい。知らんもんは作れんから知ってこい」ということですが、そういう社風は昔からずっとありましたね。

Q:会社はやがて、だんだん業績が悪くなって倒産することになってしまいましたが、中本さんが実際に現場にいらっしゃった時に、会社がまずくなってきたなと実感し始めた時期っは、だいたいいつ頃でしたか?

中本:そうですね……セガサターン用ソフトの開発をしていた頃から、「だいぶまずくないか?」っていうのはありましたね。

Q:開発費が高騰したとか、セールスが芳しくなかったということでしょうか?

中本:はい、そうです。その頃になると、プレイステーションタイトルの『マジカルドロップ』は自社での成功例だったと思うんですけど、それ以外では、例えば『慟哭そして…』のような、作家さんや原画担当の方にどうしてもすごくお金を使うタイトルが増えていったんです。しかもグラフィックの量が増えましたので、その制作費とかが高騰すると、話題性が出て評価もそこそこ受けたとしても、本数がそれほど伸びなくなるというようなものが、大型タイトル化しつつリクープしにくくなってしまうと。昔の体力があった頃はまだ頑張れたんですけど、もうそこまでの体力がその頃には残っていなくてという感じでしたね。

ですから、これを最後にもうディクリーズしたと言う感じでしょうか。仲間はちょっと、まあ、私たちが話を聞いた時は、もうクラクラで倒れそうになった社員もいたっていうのは、いまだに覚えていますけども。扉には鍵がかけられみたいな感じで。それまではもうオープンな感じで、大学ノートにびっしり書いて「俺のゲームを見てくれ!」っていう、高校生みたいな人がいる時期もあったんですけどね。そういうような感じが、やっぱ、その頃になると、主要な人も大分抜けちゃっていました。

私のほうでも、会社の外から「こっちに来いよ」みたいな話をもらったりしていました。でも義理があるし、自分は古い人間なので、そう簡単には離れられないんだよなとは思っていたのですが、とある時期に社長の決断がありまして、「ああ、ついに社長、その決断をなさるのね」っていうことになって、どこまでもついていくつもりだったんですけど、それだけはちょっと受け入れられないみたいなことがあったんです。

当時の社長の心理状態を考えたら、明らかにそういうことを言えない人なので、本人の名誉のために詳しいことは言えませんが、ゲームメーカーとしてあるまじきことを発言されたのを機に、私のほかにもそれを聞いてしまった人がいたのですが、それまでは骨をうずめるまでいようと思っていた人間も、そのタイミングで辞めてしまったということもありました。まあ、経営者としてはしようがないと言いますか、うまくいっている時期の経営者としては良かったというか、いい意味でも悪い意味でもいろいろなことをやらせてくれて、こんなに自由で可能性がある会社はないなあと。ゲームにも表れていますよね。『チェルノブ』とか変なゲームばっかり作って、「普通はこれ、企画でハネられるよね」みたいな、ちょっとありえないものばかりで。

Q:『チェルノブ』は当時、新聞でも叩かれましたよね。

中本:テレビの『トゥナイト』とかでも叩かれましたね。取材の仕方は全然違うのに、実際に放送された時には、意図的に編集されて悪意の塊のようになったりしていましたので、当時の開発部長はすごく怒ってましたね。まあでも、それだけのことはやっていたよねっていう。

Q:しかも、『戦う人間発電所』なんてサブタイトルも付いていましたからね。

中本:ですよね。しかも、名前が『チェルノブ』ですから、今だったら会社ごと本当につぶされてますよ(笑)。あれはゲーム文化のなかにおいて、変な花を咲かせていたものでしたね。技術に関しても、吸収できることは何でもやらせてくれました。コピープロテクト対策で、結構当時はまだマイナーだったんですけどディスクハッカー、マジコンが当時あったんですよ、ゲームソフトをコピーするやつですね。で、マジコンはどんなものかと言いますとディスクシステムなんです。ソフトのデータをディスクシステムへ物理的に吸い出して、それを専用のRAMアダプターで再生するみたいなものまで出てくる始末でした。

最初はROMカートリッジを2個挿して、ただ単純に焼くだけでコピーできたものがあったんですけど、それはバンク切り替えチップをいろいろ変えたり、あるいは先程も言いましたように、他社さんではもういろいろなチップを作っていましたので、その全部に対応したものを作るのは物理的に無理ですから、これらのカセットは普通はコピーができないんです。でもマジコンは、その専用チップが載っているカートリッジが何か1種類あれば、データ部分を差し替えて使えちゃうという、もう手強いと言いますか、中国恐るべしみたいなものだったんです(笑)。

ディスクハッカーは多分国産なんですけど、ディスクを入れ替えることでコピーできてしまうのに、ディスクハッカー自身はコピーができないとか。そういうことがあった時には、私が中の仕組みとかを解析させられました。

Q:一時期、ファミコンソフトのコピー業者がほんの一瞬ですけどはびこって、マスコミに叩かれ出したら一斉にいなくなった時期がありましたよね。

中本:ええ。もうサーッといなくなっちゃったんですけど、その時には対策とか対応を、「バンク切り替えチップとかの解析もできるんだから、そういうのもできるだろう」ということで、プログラマーでも何でもなかったんですけどやらされました。ディスクハッカーは、ひと晩でディスクハックできるようになりまして、ディスクハッカーがコピーできない仕組みを特定しました。ディスクハッカー自身もコピーできるようになって、「こういう動きをしてましたよ。ここを見て動いてますよ」っていうことを報告して、「じゃあ、売り出しても大丈夫だね」とか言われましたね。もう本当に、全然関係ないないことまでやらされましたよね。「何だよこの会社、面白いじゃねえか!」って(笑)。

Q:しかも、まだ大学を出たばかりのお若い頃に重要な仕事を任されたわけですから、なおさらすごいですね。

中本:まだペーペーな、最初の3年間くらいはこき使われましたよね。今だったら三六協定に絶対引っ掛かりますね。徹夜なんて当たり前ですし、リリース前になったらもう泊まり込みで、カップ麺ばっかり食べるので太りましたね、その時は……。

Q:まさにそういう時代だったんですね。物の本とかにもよく書かれていると思うんですけど、そのような仕事の幅の広さですとか、自由さがあったのは中本さんだけだったのですか?それとも、ほかのデータイーストのみなさんもだいたいそういう目に遭っていたのしょうか?

中本:もう適性があれば、みんなそんな感じでやらされていましたね。

Q:すみません、たいへん失礼な聞き方で……。

中本:いえいえ。でも、本当にそうでしたね。適性があったら、あれもこれも何でもやらされました。「ゲーマデリック」は、当然サウンドチームの社員が中心でしたが、そうではないもの、例えば宣伝広告とかであれば、チラシを作るときのキャッチコピーを、もしうまい人が誰かいたら、そういう人たちがガンガンやったほうがいいよねとか。あるいはグラフィックの人が、グッズ用のデザインも作ってみたりとか、いろいろとやらされていたと思いますけど、私はちょっと特例だったかもしれないですね。でも、ここまで1人にいろいろやらせたら普通はダメですよね(笑)。

Q:でも、それは自由にいろいろなことができる社風があったからということですよね?

中本:そういうのは確かにありましたね。特に、営業の人員は足らなかったので、必要な時には増えて、日頃はそんなにいらなかったりする部署だと、借り出されたりもしましたね。ショーの説明要員とかを、開発の人間ばっかりで担当したりして。

Q:あるいは、コンシューマーの人数が足りなくなったら、業務用から人が借り出されたりたりとかしたのでしょうか?

中本:それもあることはあったんですけど、お互いに借りたくない、貸したくないという、業務用と家庭用とでそれぞれにこだわりがありましたね。家庭用は制限の中での究極を目指していて、業務用のほうは、今考えると自由でも何でもないんですけど、色数が何万色も使える中での究極を目指す。でも、声の出演とかになると、「こんな声が欲しい」と言われたら、もうそんなのは関係なしでマイクの前に立たせていました。私も立たされましたね。

Q:最後の質問になりますが、今から振り返りますと、ゲーム産業は日本ですごく大きく花開いたと思いますが、個人的な感想で結構ですので、なぜ日本でこんなにゲーム産業が大きくなったとお感じですか?

中本:まず基本は、やはりお客様が遊んだ時にどう思うか、どう感じるか。「こういう体験をさせてあげたい」「こういう気持ちに、もし自分がなったら楽しいな」という、日本独特のおもてなしの心が決定打なのかなと思っています。アメリカのゲームですと「ヘイ!俺、こんなの考えてみたぜ。ついて来いカモン!」みたいなのが割と多くて、「人もバンバン殺せるぜ、イェーイ!」みたいなものが突然売れたりとかしますけど。日本でも、確かにそういうゲームはあるのですが、基本的には「こういう気持ちになってほしい」「こうなったら楽しいよね」「こうなったらワーッと盛り上がるよね」ということを主体に考えるところが、ちょっと違うんじゃないかなと思っております。

それに加えて、ある程度の検閲機関的なものが、任天堂の初心会とかスーパーマリオクラブですか?
電通が始めた、ああいうような所で一定の評価をしたり。ウチは好き放題やっていたんですけど、行き過ぎた部分はそこでブレーキが掛けられていたんですね。その結果、アバンギャルド度が100のものを受け入れることができないお客さんにも、そこで「10くらいなら大丈夫」って薄められたりしていたんですね。

当時はプンプン言いながら、任天堂のダメ出しに答えたこともありました。例えば、『メタルマックス』で黒焦げの死体が出てくるようにしたら、「黒焦げの死体はダメです」って言われましたので、「じゃあ、普通の肌色の人間にしよう」と差し替えたら、「こっちのほうが生々しいじゃん」ってなったこともあったんですけどね(笑)。まあそんな感じで、とにかく言われたことをちゃんと聞いて直さないと出してくれなかったんです。でも、そういう表現上の注意とかは企画のなかにも徐々に浸透していきましたし、業務用でも『チェルノブ』で懲りたのか、その後はひどいものは出ていないと思います。

Q:『チェルノブ』の後も、データイーストからは良い意味でバカバカしい、面白おかしい演出を取り入れたゲームがたくさん出ていた印象はありますね。

中本:はい。『トリオ・ザ・パンチ』とかがありましたよね。あれを作った井伊さんという企画が、もう本当に天才か奇人かっていうような人間だったので、キャラクターとかがあんな感じになったんですよ。やっぱり日本では、みんな基本的なおもてなしの心を必ず持ってるんじゃないかなと。そこが他社さんも含めて、日本と海外のゲームとの一番大きな違いではないかと思います。

ハードが良かったとか、確かにそういう面もあったかもしれませんが、アタリのようにならなかったのは任天堂のお陰で、もう足を向けて寝れないのかなあとも思います。山内さんが何度も仰っていた、「ダメゲー、クソゲーが世の中にあふれかえっている。マルチメディアというものがあるのならば見せていただきたい」とか、名言をたくさん残されていましたよね。そういう考え方に、少なくとも当時ゲームに携わっていた者は耳を傾けたに違いないと。私もその1人でしたし、そこはもう間違いないのではないかと思いますね。

後半:データイースト在職時の証言

データイースト流のゲーム企画や開発の手順

Q:ラインがだんだん増えてきて、外注先ができたということでしたが、ラインを増やそうというモチベーションもあったわけですし、いろんな企画が上がってきたりということもあると思うんですけど、どういうプロセスを経て、出てきた企画が実際のラインに乗るような形だったんですか?

中本:まず、企画の種というのは、だいたいが喫煙所からなんです(笑)。喫煙所でタバコを吸いながら、「こんなゲームあったらいいんじゃない?」とか「こういうのやりたくない?」「こんなこと思ってるんだけど、どう思う?」というところからスタートしています。私がちょうどコンシューマーの企画をまとめていた時期は、定期的に企画会議を開いていました。そこでは進捗とか、そういうのはもうどうでもよくて、新しいメンバーが、次はどういうものをやりたいとか、どういうものを作るのかというアイデアを出して、例えば「近未来鬼ごっこ」のようなキーワードを1個決めて、簡単にペラ紙にまとめるような形でした。

で、どういうシステムにするのか、どんなことが面白いのかを出して、「だったら、もっとこうしたほうがいいんじゃない?」と話し合って、いくつかの実になるものをまずはキャッチアップします。その中から、「これはいけるかも」とか「これって今までにないよね」というものに関しては、いわゆる営業ですとか、社長へプレゼンするための準備資料を作成するフェーズに入ります。ただ、この時に、多分ですけど他社さんでは「前作は何万本売れて、いくらの上がりがあった」とかKPIについて触れたりすると思うんですけど、当時のデータイーストの風土では、開発はむしろ数字には触れない。おそらく業務用もそうだと思うんですけど、数字の話は一切出てこないんです。

それよりも、「このゲームはこんなに熱くて面白い。他社に対してこんなに優位性があるんだ、だから俺に賭けてみないか?」みたいな、もう完全に属人的でしたね(笑)。神谷さんと『大怪獣デブラス』のプレゼンをした時は社長、役員、そして多くの社員らの前で、2人してゲーム中に出す予定の踊りのシーンを踊ったんです。それだけ、どれだけ楽しくて面白いゲームなのかを、必死に訴えて企画を通したりしました。

ですから、データイースト独特のカラーっていうのは、会社のカラーというよりは、個人に依存したカラーが色濃く出る形になっていました。今思うと、営業の方は本当に大変だったと思いますね。「社長がやるって言ったから、もう売るしかないだろ」って、営業からすればすごい迷惑な話ですよね。営業の方が気持ちよく売れるように、こちらから営業のいる所に行ったりもしていました。営業の方がいる所には、資料がたくさんあるんですよ。各社から送られてくる雑誌ですとか、展示会で出回った資料とか、そういうものを利用してマーケティングの精査をするような企画会議に行って話を聞いたり、あるいは一緒に飲みに行って話を聞いたりして、そういう感覚を磨いたりもしていました。私から見て、そういうのが一番うまかったのは野島さんですね。

Q:野島一成さんですね。

Q:ええ。後に、『ファイナルファンタジーVII』とかを作った野島さんですね。彼は、特に営業とかに行ってキャッチアップするのがうまかった企画でしたね。逆に、営業とかにも一切行かなくて我が道を突き進む、もう「ゲーム道」みたいな自分で極める感じでやっていたのが渡辺さんという企画で、『サイレントデバッカーズ』とか、すごい特殊過ぎて「マニアでもちょっとできねえよ!」というようなゲームとかを作る、いろいろなタイプの企画がいました。

そんな企画のメンバーたちの個性というのが、最終的には会社のカラーになっていったのかなと思います。今の企業では考えられない、KPI無視のやる気重視で(笑)、俺を信じろ型の開発でした。マーケティングの真似事みたいなものも、ちゃんと勉強しようということでいろいろなポジショニングマップを作ったりとか、今いるお客さんを、「この象限からこっちの象限に引き上げるためには、このタイトルを出すんだ」みたいなこともやったんですけど、それはあくまで自分の話を聞かせるための説得材料として使っていたので、本気でマーケティングをしたと言うよりは、自分の企画を通すためのツールとして利用していたというのが実態ではなかったかと思います。

Q:データイーストでは直営店、つまりゲームセンターをマーケティングに利用しなかったのでしょうか?

中本:ウチは直営店が1、2店舗しかなかったので、そこまでの力はなかったですね。私が入社した時でも2店舗しかなかったですし、どちらも後に閉店しちゃいましたので。

Q:企画を実際に出して、ものを作るときって、例えば、シナリオとかあるじゃないですか?
シナリオは、企画を提案した人が個人的に完成させていくのか、それともいわゆるチーム的、集合的な考え方でシナリオを完成していくのか、どちらなのでしょうか?

中本:結論から言いますと、タイトルによってまちまちですね。例えば、『ヘラクレスの栄光II』では、最初は別の企画の人間がやっていたんですが、「いまいちだね」という話になって、後から野島さんが「面白くしてよ」と言われて手伝うようになったりとか、そんな形で作ることもありました。先程もお話した『探偵神宮寺三郎』とかも、シナリオをこちらで分解はするんですけども、元のシナリオの良さを生かして、ゲーム的に分解するようなコントロールを企画のほうではしていましたね。

逆に、『ダークロード』とかは企画担当だった巌さんが一所懸命作ったりしていました。ご存知のように、野島さんはシナリオ制作の能力がすごくて、面白いものが作れましたね。『ゴルフ倶楽部バーディーラッシュ』の、ロボットのようなおばあちゃんが出てきて、「わたしロボットなのよ、はは」とかいうセリフとか、PCエンジンの「アツクテシヌゼーー!」みたいなセリフとか。

Q:そのPCエンジンのゲームは、『ならず者戦闘部隊ブラッディウルフ』のことですね。

中本:はい、そうです。『ブラッディウルフ』とか、野島さんがシナリオを書いてたっていうのが、そういう部分は、会社っていうより、野島色がいろいろなタイトルで当時は出ていたっていうことですね。だから、かなり属人的で、今の企業では絶対許されないですよね。「これはこいつしか作れない」という感じになっていました。

Q:それと関係すると思うんですけど、例えばゲーム作る時のチームは、どのように形成しているんですか?

中本:例えばグラフィックは、基本的にグラフィックチームでまとめている者がいて、何人必要なのかを考えて決めます。納期が長ければ少なくするし、すぐ出さなくちゃいけないとか、持ち込み企画だったら全力でやらなくちゃいけなくなります。『メタルマックス』では、もうほぼ総動員でやろうとか、プロジェクトによって当然プログラムのほうも当然プログラマーをまとめる人がいて、「とにかく敏腕の人を突っ込もう」とか、「これは敏腕が1人、新人2人でもできるよね」とか、その辺は各セクションのとりまとめの者がだいたい決めますね。

Q:つまり、仕事のプロセスとしてはまず企画、シナリオがあって、「こういう感じにしよう」っていうのが決まってから、グラフィックならグラフィックだけのチームを作って開発が始まるということですね?

中本:それができれば一番いいんですけど、だいたいシナリオが完成していない時期から走り出すので、どの程度の規模になるのかだけを決めますね。

Q:シナリオも並行しながら作っていたんですか?
中本:そうです。なので、物によってはシナリオ待ちの時間は別の企画をしなくちゃいけないんです。とにかく、数に対して人が少なかったので。

Q:つまり、部署とプロジェクトとの両方に所属するような形におそらくなっていたんですね?

中本:はい。そういう形になりますね。

Q:すると、部署に対する帰属意識はそんなに強くはなかったということですか?

中本:いいえ。作っている時は、企画は実質ディレクターかつプロデューサーの役割をする必要があって、例えば「音楽はどんな曲にしたいのか?」という話になると、先程も言った酒井さんに企画が相談するような形でやっていました。でも、どうしても大きなタイトルになると、部署よりもプロジェクトのほうのつながりの方が強くなっちゃうので、私が実は一番反省しているのは、『メタルマックス』なんですね。

先程お話した、『メタルマックス2』以降は初期から投入された都合上、全員プログラムとグラフィックは社内のスタッフでした。企画組はすべて外部の人間でしたが、社内で専有して仕事をする場所の確保がなかなか難しい時期がありまして、近所の安いマンションと言うのもほど遠い、ボロアパートみたいな所を拠点にしていました。何かあった時は、私がそこに行ってずっと話をしなくちゃいけない、シナリオを作るための管理をしなくちゃいけないなどとやっているうちに、企画のまとめがかなり難しくなってしまった時期もありました。

その時には、ほかに企画をまとめられる人が、社内の人間で後に『探偵神宮寺三郎』シリーズをずっと続けることになる西山英一さんとかに、そういう部分を受け持ってもらうような感じになってきました。なので、一旦は小さいプロジェクトで始まったのが大きくなったのをまとめてはいたんですけど、逆になぜかプロジェクトに引き戻されることになったんです。それ以降は、プロジェクトを立ち上げたりとか、あるいは何かあった時に、「これはどうする?」みたいなかとを考えて進める仕事が増えていきました。

Q:この流れで、『メタルマックス2』以降は、企画が外注になったということですか?

中本:いいえ、企画はむしろ内製です。すでにこの時期から、残念ながら新規シリーズが逆に立ち上げにくくなっていましたね。それまでは割と好き放題に、もう何でも製品化できたんですけど、その頃になるとファミコンブームが一段落しまして、新ハードが出るとその開発費がファミコンの比じゃないくらい掛かるようになったんです。

主にグラフィックを作る費用がどうしても掛かってしまって、グラフィックを作るだけで容量の半分以上を使って、しかもそのほとんどが雑誌媒体とかでみなさんが実際に目に触れる所になるわけです。ゲームって、実際にやってみないとわからないじゃないですか?ですから、グラフィックにどんどん力を掛けるようになって、人件費がかさんじゃうんです。

Q:先程もお話されていた外注というのは、主にどういったプロセスの外注なんですか?

中本:プロセスの外注は、繰り返しになりますが、プログラマーが圧倒的に足りなくて、その部分を外に借りるということが多かったですね。しかも、こと新ハードとなるとハードの解析段階からやらなくちゃいけませんので、そのハードの経験がある方に頼んでやっていただいたほうが、コストパフォーマンスが良いということもありました。やはり、どうしてもKPIを無視できなくなるという形になりますので。ですから、企画は『メタルマックス』は外からの持ち込みでしたが、それ以外は逆に中で磨くという形になっていきました。

Q:外注のお話とは逆の形になりますが、データイーストのゲームをナムコットブランドとしてファミコンソフトで出せるようになった経緯とかは、何かご存知ですか?

中本:以前から、単に社長同士の仲が良かったとしか聞いていないですね。現に、その後にナムコからも人が来ましたし、セガからも人が来た時期っていうのはありましたね。結構、いろいろな会社の方の出入りがあって、下のほうは出ていく一方で、上のほうでは入ったり出て行ったりっていうのが、当時は割とよくありましたね。

Q:例えば、『カルノフ』とか『ドラゴンニンジャ』はナムコから発売されましたよね?ナムコットブランドで出たことに対して、開発の方が「え、なんで他社ブランドなの?」などと反発するようなことはなかったのでしょうか?

中本:いいえ。それはもう、出せるチャネルがあれば、それこそいくらでも出したかったですよね。ほかにも、『サイドポケット』とかも出しましたよね。

Q:ビリヤードのゲームですね。

中本:そうです。それも全部社内で作っていたんですけど、1年間に出せる本数が3本とかに制限されていましたので、それ以上出したい時は、ナムコさんの力を借りる感じでしたね。

Q:『バーガ―タイム』とか『カルノフ』も、テレビCMも当時ナムコが流していましたよね。

中本:それから、『タッグチームプロレスリング』とかもそうですね。

Q:
『タッグチームプロレスリング』も、元はデータイーストのアーケードゲームでしたよね。

中本:ナムコさんは特殊チップを持っておられたので、私は入社当時からファミコンがもう好き過ぎてしょうがなかったんですけど、ハードウェアをたまたまやっていましたので、バンク切り替えチップですとかを、他社さんがオリジナルで作られていたのがわかっていたんですね。任天堂さんのほうでも、途中からMMC1とかMMC3とかを作って共通化していったんですけれど、それまでは各メーカーが勝手に作っていた変な時代がありまして、その頃は他社さんのバンク切り替えチップの動作を個人的な趣味で調べていたんです。

ですが、「会社でもそれをやっていいよ」と言っていただけたので、会社でも解析をして、「このソフトチップは、ポート通った時は、バンクはこういうふうに切り替わるのか」とか、いろいろと調べたりしていました。元々ROMカセットであったソフトをディスクシステム用ソフトにする時には、実は何の改造もせずにできるソフトがいくつかあることを突き止めたりとか、そんなことを調べさせてもらえる時期がありました。

例えば『カルノフ』は、部分スクロールと言って、下のほうはが切れているけど、上のほうは上下左右に動くようになっていました。他社さんでも、バンダイの『ポケットザウルス』とかでは部分スクロールを使っていましたので、「他社でできるんだから、うちでできないわけないじゃん、頑張って!」ってプログラマーに言って、出来上がったら「やっとできました!」「おー、すごいすごい!」とかって話をしましたね。でも、後で念のためチップを解析したら、部分スクロールがハード的にできることがわかったんです(笑)。つまり、私はプログラマーにすごい大ウソをついてだましちゃったんですね。

Q:本当は仕様で入っているのに、こっそり作らせちゃったんですね。

中本:でも、ちゃんと実現できましたので、「あのプログラマーはすごいや」「彼はすごい能力の持ち主だよ」って、お詫びに周りに触れ回ることで許してもらいました(笑)。まあそんな失敗とかがいろいろとありましたね。すみません、また話がそれてしまいました……。

アーケードゲームの開発も担当

Q:中本さんは、アーケードゲームの『強行突破』と『ダーウィン4078』の開発も担当されたそうですが、そもそもアーケードゲームの開発を担当するようになったのはなぜですか?

中本:多分ですが、後で聞いた話では大学の工学部卒の人は、もうほぼ選択肢がなくてハード部門の配属になったからだと思います。。その理由は、やはり当時の文化でもあったコピー基板問題。コピーされてしまうと、莫大な開発費を掛けたものが、あっという間に自分の所に1円も入らず広まってしまうっていうのを何度も経験しまして。まあ業界全体がそうだったとは思いますけど。

コピープロテクトチップの設計とか、CADを使えてチップを制作してもらえる会社さんのデザインスタジオに、もうほとんど泊まりこみに近い状態で、ずっと通い詰めになってCADで設計したりするような、そういう知識とか忍耐力が必要だということから、工学系男子は強制的にハードウェアをやるみたいな文化があったようです。私とかも、なぜかそれに組み込まれちゃってたので、いきなりはんだ付けからスタートっていう感じでした。『ダーウィン4078』の元になったのは、実は『強行突破』の基板で、『強行突破』の基板と『ダーウィン』の基板は、同じなんです。

Q:つまり、『強行突破』の基板に『ダーウィン4078』のROMを差し替えるだけゲームが動くんですね。

中本:ROM交換とプロテクトチップの変更だけで動くんです。その元設計を、先輩が行ったものを調整して出したんですけれども、私のミスでその基板のロケテスト中には、基板の上にうまくいかないところをパターンカットして線を飛ばす、ジャンパーが100本も飛ぶ、100本ジャンパー基板になっちゃったんですね。

そのジャンパーが、移動中に切れてしまわないように樹脂で固めたので、もうROM交換は不可能な状態になってしまいました。後で工場から、「もうあれはひどかったね」「お前がその責任者か?」って苦情を言われるような、ちょっとした思い違いでそんな基板を作る羽目になってしまいました。「もう千葉工場のみなさんごめんなさい」と(笑)。
そんなことがありましたので、その2つは思い出深いです。ジャンパーが途中で切れて、「わかんないから直せ。お前しか直せないんだから、悪いけど来てくれる?」って、日曜日の深夜にプログラマーから自宅に電話が掛かってきたこともありましたね。

Q:中本さんが開発に関わられたアーケードゲームは、『マジカルドロップ』を作り始めるまでの間はこれらの2タイトルだけですか?

中本:はい。『マジカルドロップ』のアーケード版で私がやったのは、どちらかと言えばルール調整のほうで、この時はハードウェアには一切触っていないですね。実は『マジカルドロップ』のコンシューマー版は、一旦開発を止めた時期がありました。『マジカルドロップ』は、自分でやらないと進まないパズルで、例えば『テトリス』はずっと受け身で進んでいきますが、「これを受け身にしていくのは、かなり難しいよね」ということで、コンシューマー版は業務用と並行して開発するのは一旦止めて、やがて別のタイトルのほうの優先度が上がってしまいましたので、実質的に立ち消えになってしまったんです。
逆に、業務用のほうの開発はすごく頑張ってゲームを仕上げる流れになりまして、それができたのを受けて、コンシューマーにも移植をしましょうと。それだと確かにお金もかからないし、版権も一緒だからということで。

Q:ハードがネオジオでしかたら、家庭用にもアーケード版のソースをそのまま持って来れますしね。

中本:そうです。そのとおりです。コンシューマー版の『マジカルドロップ』は、サターン版とプレステ版を出す時に私が担当になりました。そこで、どうしてもやりたかったのが、サターンとプレステ版を出すにあたって、初代『マジカルドロップ』と『2』はゲーム性もキャラも違うけど一緒に出すことでした。

『マジカルドロップ』のキャラクターデザイナーと、『マジカルドロップ2』『3』のキャラクターデザイナーは別の人で、その2人が作った『マジカルドロップ』を同じものとしては扱ってくれなくて、一緒に商品化するのがとても難しかったんです。最初の『マジカルドロップ』のプログラマー、グラフィックデザイナーのつかぽんさんという女性の方はもう退社していましたので、確か『2』と『3』のキャラデザインは竹内さんでした。それでも、私は絶対に一緒に出したかったので、2人を何とか説得して同じタイトルとして出す許可をもらいました。すごく辛かったんですけど、実現した時は小躍りするくらいうれしかっですね。

Q:『マジカルドロップ』がシリーズ化したということは、第1作目の評判がよかったから続編も出そうということになったわけですよね?

中本:そうですね。2作目はポップなキャラになりましたが、1作目のキャラとはもう真逆で、1作目のキャラはアバンギャルドと言いますか、何かシュールな感じなんですね。「それがいい」と言うファンももちろんいたのですが、『2』以降のアニメキャラに近いデザインのほうが一般受けはすごくよかったので、一番最初のデザイナーは当然面白くなくて、「もうやめた」みたいな流れになっちゃったんです。

それから最初の時には、タロットカードのノベルティグッズを作ったり、どちらのキャラも使えるようになったので、その後にはトランプを作ったりもしました。その頃は、そういう売り方も工夫できたので面白かったですけどね。データイースト末期の、最後の花火のひとつかなという感じでしたね。

Q:データイーストでは、専用筐体を使用したアーケードゲームも出していましたが、生産あるいは量産する際は荻窪近辺にあるどこかの工場を利用していたのでしょうか?

中本:いいえ、設計は社内で、生産は千葉工場でやっていました。筐体の担当は課長と課員の2人しかいなかったのですが、2人とも仕事をマルチでこなしていました。筐体もいろいろありましたね、例えばレーザーディスクゲームの筐体とか。

Q:エレメカとか、占い系の筐体ものも出していましたよね。

中本:はい。そういうジャンルを2人で生み出していましたね。

Q:それから、『プリクラ』ブームの頃には『スタンプ倶楽部』も出しましたよね。

中本:そうですね。『スタンプ倶楽部』懐かしいですね。これを考えたのはグラフィックの女の子なんですけど、「すごかったから」ということで賞を受賞してましたね。「顔写真がスタンプになったら楽しい」みたいなことから実現した、女の子ならでは企画でした。あの時は、社内での女性の地位がすごく上がっていきましたね。

Q:人の出入りがあったというお話がありましたが、データイーストはそういう会社だったんですか?新卒が入って、データイーストで腕を磨く会社なのか、あるいは上も下も中途で出入りがあるのか、どちらでしたか?

中本:どちらかと言えば、新卒はずっと採ってはいるんですけども、育つと旅立っていくような学校的な感じでしたね。

Q:先程も、人材輩出会社だって仰っていましたね。

中本:ええ。ちょっと良くないことなんですけど、育てた人間のなかで恩義を感じて残った人間は、私を含めて割と少なかったですね。私も、最後には逃げるような形で辞めてしまったんですが。途中から入ってくる人も実はいたんですけど、それは教育をしたうえで入ってきたという形でした。それはどういうことかと言いますと、サテライト構想というのを当時の会社ではやっていまして、札幌サテライトとか福岡サテライトとか、データイーストの支部を作ったんですね。

そこには新人もいましたが、やる気のある中途が集まって、「ゲーム業界に入ってみたい」っていう人を育てて、もしいい人がいたら、すぐに地方で働けるならそこで使って、そこでは無理だったら東京に来てもらって、「社宅を貸すから、ここで作ってね」という形でやっていました。そのうちの1人が野島さんですね。データイースト卒の中では、彼が一番儲けていると思いますが、彼は札幌サテライトの出身で、上京して「東京って怖い所だね……」みたいなことを言ってましたね(笑)。

Q:そのサテライトは、いつ頃に作られたのですか?

中本:何年だったか……ちょうど、コンシューマーとアーケードの部隊を補強しようかっていう頃ですね。どちらかと言えばコンシューマーが中心で、営業所だった所に開発を養成するような仕組みを作ろうっていう取り組みだったと思いますね。福岡サテライトからは優秀なプログラマーがたくさん出てきましたので、「そうか、考えるのが得意なのは北海道で、体を動かすのが得意なのは福岡なんだね」と。まあ、プログラマーも頭を使うんですけど(笑)

Q:当時から、九州ではソフト産業が盛んでしたしね。

中本:それもあるかもしれないですね。すみません、もう気分で話しちゃって……。

Q:サテライトについては、先程から何度も仰っているように、データイーストでは企画はあってもそれを実行する人が足りない状況があったので、中本さんがそういう仕組みを整えていったっていう理解で宜しいですか?

中本:いいえ、当時の上司ですね、進言したことはありますが。せっかくネタがあるのに、開発体制がないから作れないという残念な思いはもうしたくない。だったら、とにかく層を厚くしようと。東京だけに固執していたところで、東京だと逆にいい人はもっと売れてるゲームメーカーに行く道とかがいくらでもありましたので。

Q:86~87年くらいになると、競合するメーカーもいろいろと出てきていましたしね。

中本:はい。だったら、元から土地勘のある営業が駐在している営業所で、その土地ならではの人とか、またはその土地から遠くには行けないけど、やる気のある人を育てようじゃないかというようなサテライトコースでした。確か、仙台にもサテライトがありましたね。正社員化するための面接に私も出張してやっていました。

Q:会社の最盛期には、社員は何人くらいいたんですか?

中本:100人そこそこだったと思います。特にグラフィックは、アルバイトの方がとても多くて、プログラマーはアルバイトよりもプロパーの方が多かったですね。企画は、デバック担当でアルバイトだった人間が実は企画もして、やっぱりゲームをたくさんやっているので、「面白いゲームのネタを考えてよ」って言ってプロパー、社員化した例もあります。すみません、この辺の事情は、私はあまり詳しく知らないです。

ファミコン名人ブーム期の業務内容

Q:いわゆる、ファミコン名人ブームの時期がありましたよね?
当時のブームはどういうものだったか、改めてお聞かせ願えますか?

中本:ファミコンが出てから、任天堂の名前はみんな知ってるんですよ。ハドソンやナムコさんの名前も、早期に参入した所は知られていましたし、ゲームセンターに行く人だったら、ハドソンはわからなくてもナムコはわかるし、パソコン用ソフトを遊んだり、PCで自作プログラムを作る人はハドソンを絶対に知っているという、そういう知名度があったと思うんです。

ところがデータイーストとか、それから、詳しくはわかりませんがジャレコやアイレムさんとかも、業務用ではそこそこの中堅だったんですけど、「世の中の人は知らないよね。ゲーセンに行ってた人でも、メーカーの名前までは知らないよね」っていうなかで、「自社のソフトを売るにはやっぱり、会社のソフトを売る顔となる人がいるよね」っていうような流れでした。一番最初に始めたのは、何と言ってもハドソンの高橋名人で、それからバンダイの橋本名人、このおふたりが双璧でした。高橋さんはプロパーの社員ということで、どちらかというと他のメーカーの方というよりは、ウチを含めて社員中心が多いなかで、橋本さんはバンダイの社員になる前は、確かアニメの仕事をされてましたよね?

Q:橋本名人は、学生時代にアニメ雑誌の『アニメージュ』の編集部でアルバイトをしていたそうですね。

中本:その仕事をされていた方が、後にバンダイに移って名人という形になったので、スタートとしては高橋名人が最初なのかなと思います。高橋名人の遠く足元にも及ばない我々としては、週に1回のファミリーコンピュータ関係の番組だった『ファミっ子大作戦』、後に『ファミっ子大集合』と名前が変わっていったんですけれども、それにウチとしてもスポンサーをすることになりました。番組はアルファ企画という所の制作で、メーカーからのルートでも出られるっていう座組みがあって、他社さんも多分同じような感じでやっていました。

シーケンスとしては、我々はメーカーの人間でしたので、収録の時間はそんなに取れないんです。なので、月に1回の収録で、翌月分もすべて撮っていました。でも、ソフトは生ものみたいなものなので、その段階では発売できる状態にないものも、発売予定にはなっていたりしました。そういう場合は、見えない所はみんなROM基板がむき出しの機材を使ったりして(笑)。それで子供たちに、「このゲームは、こんなふうに遊ぶんだよ」とか、そういうことは台本には書かずに、全部一発で本番みたいな感じで撮っていましたね。

そういうことをやっていると、「テレビで見たやつだ」とか、「これ知ってる。このメーカー好き」とかいうのが、徐々に形成されていったんですね。逆に、今では個人情報保護法やら何やらでいろいろと難しいのかもしれませんが、まだ当時はおおらかな時代だったので、ビデオにわざわざ撮っている人もいなかったので、まあいいじゃないのかなあと。そこで何が起こっても放送前に撮り直しができますし、宣伝媒体としてはやっぱり大きいよねと。

ごくまれにですけど、ゲームショウとかの場で実演をしてあげたりですとか、軽いファンサービス程度のことをしてあげるっていう、メーカーさんにはよっては、そういうやり方もしていました。今だとYouTubeとかで簡単にできる時代になりましたが、実際に制作者が出て行って話をした方が早いですし、今では実際にそうなっちゃっていますけど、当時は代表の顔が必要だったんです。

あと、もうひとつの背景は、メーカー側が開発者の引き抜きを恐れていました。例えばセガさんでは、いろいろな筐体のゲームとかをテレビで特集する時に、制作者も一緒に説明のために出るんですけど、全員がサングラスを掛けているんです。覆面状態で、名前も出しちゃいけないっていう時期がありました。ウチの会社でも、一時期そういうことが実際にありまして、途中からはやめたんですけども、名前は必ずその人に準じた仮名、いわゆるハンドルネーム的なものを作って、エンディングには仮名を入れてもいいけど実名は出さないようにしようと。あるいは、エンディング自体を出さないようにしようということで最初はやっていましたね。

でも、「引き抜きがなくても出て行く人は出て行きましたし、ずっといる人はいるんだから、それじゃあ意味がないよね」ということで、途中から「このソフトは、私の責任によって作りました」ということで、実名を出すようになったんです。他社さんでも同じ流れだったでしょうね。

Q:データイーストでは、昔からアーケード版でも『ダークシール』など、エンディング画面に漢字でフルネームのスタッフロールが出てくるタイトルがありましたよね?昔はみんなアルファベットでイニシャルとか、仮名をちょっとだけ出すのが当たり前でしたが、『ダークシール』ではサウンド担当の吉田さんも、フルネームで吉田博昭と出ていましたが。

中本:そこはまあ、元々目立ちたがり屋な人がゲーム作ってることが多かったですので。

Q:だいたい何年くらいから名前を出すようになったんですか?

中本:ファミコンだと、『ドナルドランド』辺りの時代から、版権元とかを実名で出さなくてはいけなくなりましたので、そうなると「自分たちだけが、実名を出さないわけにはいかないね」となった辺りからですね。もう引き抜きとかがあってもいいでしょうと。

Q:80年代の終わりくらいから、名前を出すようになったということですね。

中本:ええ。セガさんとかでは、鈴木裕さんみたいな方がもう実名でガンガン出てきていましたから。

Q:90年代に入ったくらいから、スタークリエーターのブームが始まりましたよね。

中本:その辺りからでしょうね。それまでは、引き抜きがあるとやっぱり何よりも困る。だけど宣伝はしたいっていう苦肉の策でした。

Q:90年代はテレビのプロモーション、広告を打つことが重要になりましたけど、80年代の頃は雑誌ですとかメディアの使い方は、それ以外はどういうものがありましたか?

中本:メディアですと、ウチがたまたまやっていたことで言えば、例えば私がコレクターでもあったと言いますか、ファミコンが大好きだったのでファミコンとかほかのゲームも集めていて、アーケードゲームも好きで遊んでいたのですが、基板は高いから買えないと思っていたら、ある時期になってファミコンとかコンシューマーの部署に移ってから、アーケードが欲しくなりまして。で、ゲーム雑誌を見たら中古基板の広告が載っていたんですよ。

Q:昔のゲーム雑誌には、基板屋さんがよく広告を出していましたよね。

中本:そうなんです。それで、基板がめちゃくちゃ安いことに気付いてしまったんですよ。当時はバイク通勤で、都内ならどこにでも行けましたので、じゃあ自分の正体を最初は明かさずに、とにかく行ってみようと。それで、いろいろお話を聞いてみると、秋葉原と同じでまとめて買うと安くしてくれるし、すごくお願いすると安くしてくれることに気付いたんです。もう古くなっていたけど、私が大好きだったナムコの『ゼビウス』とか、『スペースインベーダー』の3枚組の基板とかをかなり安く、2,000円とか3,000円とかでどんどん買いましたね。

それで、「ファミコンソフトは4,000~5,000円もするけど、アーケード基板は2,000~3,000円で買える。だったら、じゃあ本物のほうがいいや!」って思いまして、会社の帰りには常にバイクの後ろには基板を載せて走るような生活が始まりました(笑)。壊れているものとかは、「タダで持っていっていい」とか言ってくれることもありました。元々ハードウェアの仕事をもやっていて、しかも解析をするのが好きでしたから、持って帰ってから家にあるテスターで調べてみたら、「あ、これはファミコンを業務用で15分間遊べる基板だ!入力じゃなくて、LEDの『あと何分』という7セグの出力のここにある!」と気付いたこともありました。

それから、すごく親しくなった基板屋さんでは、コンプライアンス的に問題があるので正体は明かせなかったのですが、基板の修理とかも「これとこれを抜けばいいだけだよ」とか言って、その場で直してあげたりして夕食をごちそうになったりとか、そういうこともやっていました。まあそんな流れで、宣伝担当が雑誌に私のことをリークしたらしく、『ファミ通』とか『マル勝』とか、『ファミコン必勝本』とかで「ゲームコレクターの写真を撮りたい」と言われまして、実家に集めたソフトとか基板とかをばーっと並べて、そこの真ん中にいるような写真とかを撮って、「『こういう変わった人がデータイーストにいるよ』みたいな宣伝をしたい、会社の宣伝だと思って受けてくれと」言われたこともありました。でも、それってコレクターから言うとすごくつらいんですよね。全部箱から出して、終わったらまた全部箱に戻すとか、そのたびに傷んじゃうし、説明書はどっかに行っちゃたりするんですが、喜んでもらえるんだったらまあいいかなあと。

で、3誌くらいに、ちょっと恥ずかしい写真が載りました。そのうち、ひとつ残ってるのが『ファミ通』で、「中本博通」でネットで検索すると今でも出てくる、変なゲーム機とかを抱えた写真が、もう消えたと思ったらまた復活したりして、それだけはなぜかネットの狭間で漂っているんです。その時の恥ずかしい、雑誌媒体を利用してた時の忘れ形見ですね。
それからもうひとつは、先ほどご指摘があったように裏技なんですね。売れなくなった時に、もう一度火をつけるために裏技をわざと出して、またこのソフトに注目してもらおうっていうことですえ。実は、神谷さんと作った『大怪獣デブラス』には、「きっと『メタルマックス』のほうが売れてこっちは売れなくなるから、売れない時代が来た時にすげえことができるように」ということで、ゲームをもう1個入れおいたんです。

このゲームは、デブラスという怪獣を避けながら卵を運ぶシミュレーションゲームなんですが、要は自分が怪獣になって相手のユニットを壊しまくれる、自分が怪獣になれるモードが実はあったんです。「それも最初から入れようよ」って初めは言っていたんですが、「いや、売れなかったときの保険で入れよう」という話を神谷さんとしたのですが、隠しコマンド難しすぎて、2人とも覚えていないんです。

Q:それだと、もう誰も再現できないですよね?

中本:ネットに解析してくれた人が誰かいないかなあとも思いますが、マイナー過ぎて誰も解析してくれなくて。自分でそのモードを遊びたいんですけど遊べないっていう、自らの策にはまって世に出なかった例になってしまって(笑)。

Q:ごく簡単なコマンドだったら、自力で探し当てる人がいたでしょうけど、難しいコマンドにした結果、誰も再現できなくなったというのは、今となっては面白いお話ですね。

中本:それで、広報からも「お前は何やってんの?」って言われてしまいました。

Q:あらかじめマーケティング的な意図を持って、二枚腰と言いますか、「1粒で2度おいしい」みたいな楽しみ方ができるモードを入れていたんですね。

中本:ええ、意図的に入れていましたね。そのほかにも、ゲームショーとかでノベルティを作ったこともありました。そうすると、なぜかジッポーとかが売れるんですよ。ゲーム業界の子供向けなのに、ジッポーにいろいろなロゴを入れたり、キャラクターを掘ったりしたものが売れたんですよ。

Q:データイーストですから、『探偵神宮寺三郎』シリーズの人気があったのでジッポーが売れたのではないでしょうか?

中本:そうかもしれないですね。確かに、このシリーズは売れましたし。

Q:「名人」というのは、要はメディアミックスですから今のYouTuberぽいですよね、そのようなプロモーションをするということで。

中本:そうなんですよ。あんまり見られない、週に1回だけしか見られないYouTuberですよね。

Q:名人としてのお仕事とは違いますが、データイーストのゲームミュージックバンド、「ゲーマデリック」のメンバーに中本さんも誘われていたのでしょうか?

中本:いえいえ、私の音楽性とか演奏技術ではとてもとても……。

Q:シンセ担当としてメンバーに入れなかったのでしょうか?

中本:いやいや。もうその頃は、シンセはデジタルの時代でしたから、どちらかというと楽器で、音で驚く時代はもう過ぎていていましたので。私がシンセで本当に人を驚かせたのは、高校時代の学園祭ぐらいだったと思います。その時はみんなよく知らないけど、ステージですごいことが、何だかよくわからないことが起こってるみたいなこととかもできたんですけど、もう音楽的には古くなっていたと思います。

Q:一時期、各メーカーが結成したバンドによるゲームミュージックライブが流行したことがありましたが、こちらのほうには全然関わっていないんですね?

中本:そうですね。サウンド部屋に行って、遊び程度でちょっとギターを弾いてみたりとか、サウンドチームの人から飽きた古い楽器を安く売ってもらったことはありましたけどね。

Q:音楽は、あくまで趣味の範囲関わっていらっしゃったということですね。

中本:趣味の範囲でしたね。ですから、去年やった「ヘラクレスの栄光」シリーズのサウンド座談会に出た時も、「俺サウンドじゃないよね?」ってみんなに言ったのですが、「いやいや、サウンドですよサウンド」って言われちゃいまして。サウンドチームのみなさんとは、麻雀仲間でもありましたね。酒井さんとか濱田さん、それからMR☆K(みすたけ)木内さんとか。

Q:元電撃ネットワークの木内さんですね。

中本:そんなつながりがあったので、セガに濱田さんが移籍した時も、セガの保養所に我々もなぜかいたりして。でも、学生時代のそういう遊びは、やっぱり役に立つなあと。やっぱ、大学生は遊ばないとダメですよ。生意気で遊び好きのほうが、今まで楽しく過ごせるんじゃないかなと思います。すみません、また話がそれちゃいました(笑)。

改めて振り返る、データイーストならではの社風

Q:今のお話を聞いていますと、昔は引き抜きを恐れていた時期もあったけど、ナムコとの関係とか、そうやってセガさんにも出入りができたのは、データイーストでは企業間の垣根が低かったからということですか?

中本:それもあったと思いますね。業界では割と古いほうですが、元々ウチから見ればセガさんは大手、ナムコさんは超大手で、タイトーさんとかも雲の上。社長はそう思っていなかったかもしれませんが、少なくとも現場はそう思っていて、データイーストのポジションは業界内では最弱だったと思っていました。でも、「変なものを作れば自分たちが最強」みたいな、そういうこだわりはみんな持ってたんじゃないかなと思います。

Q:ゲーム会社は、別に閉鎖的ではないけれども、昔はそれほど他社とのやりとりはしないイメージが強かったのでが、今日のお話を聞いてると開発する人、企画レベルとかではかなり交流があったようですね。

中本:はい、結構ありましたね。その辺はおそらく、当時の社長の福田さんや営業部長の人脈があったのかなという気がしますね。

Q:社員の皆さんのほうでも、入社退社じゃないやりとりとかも結構あったんですね。

中本:まあ、そうですね。どちらかと言えば、入ってくるのは外注さんで、ウチにずっと滞在しているとか、「企画担当者が、あの部屋をずっと占領してるぞ」みたいな、そんなイメージですね。

Q:外注さんが「滞在している」と言うのは、データイーストの中にずっといて仕事をしているということですね?

中本:はい、そうです。

Q:90年代のゲーム業界は、外注と言えばラインを1個外に借りて、1本のラインの仕事をまるごと投げるような使い方がイメージとしては強いのですが、今日のお話を聞いていますと、必ずしもそうではなかったんですね。

中本:全体プロジェクトの一部をアウトソーシングするものが多くて、最初は企画を自分たちが主体でやっていたのが、逆に企画だけをアウトソーシングして、制作陣は中で全部でそろえるようになっていきました。まるごと外に出しているものもなくはないんですけど、すごく少なかったです。丸投げに近かったのは、『ドロップロックほらホラ』というゲームがそうでしたね

Q:PCエンジン用のパズルゲームですね。

中本:はい。落ち物パズルゲームの国内版で、「『マジカルドロップ』的なものをひとつ作ってみようか」ということで始めて、私は行程管理とかもやりましたが、向こうに企画の方もプログラマーもほとんどの人がいましたので、これについては進捗の確認をやっていたという形でした。多分ですけど、私も中の人だったということで、スタッフロールに私の名前も、はっきりとは覚えてないんですけど出ていると思います。これはほぼ外だけで作ったもので、あとは『パチンコグランプリ』とかもそうでしたね。

Q:ファミコンのディスクシステム版のパチンコゲームですか?

中本:ええ。それはマリオネットさんという会社で、ほかにもパチンコソフトを、確か『パチコン』とかも作っていました。

Q:TOEMIランドが、ファミコンで発売したパチンコゲームですね。

中本:TOEMIランドだったですかね。それも確か、大元のゲームを作った自社では出してはいなくて、大元はマリオネットさん。パチンコもの、いろいろな跳ねものとかのシミュレーターを作られてたんですけど、おそらく発売できるネタはたくさんあっても発売できる所がなかったという、ウチのものをナムコさんで出していたのとは逆パターンだったんですね。じゃあ、ウチからもパチンコ的なものを出してもいいんじゃないかと。安かったこともありましたしね(笑)。

私がプロデュースでしたわけではなかったのですが、ゲームを見るうえで「お前ら、もっとパチンコやってこい。そこで打ってこい」って、なぜか私ともう1人くらいの担当者が当時の部長から言われたんです。

Q:業務命令で「打ってこい」というのは、すごいお話ですね。

中本:意味がわかんないんですけどね。まあ要するに、「パチンコ店を知ってこい。知らんもんは作れんから知ってこい」ということですが、そういう社風は昔からずっとありましたね。

Q:会社はやがて、だんだん業績が悪くなって倒産することになってしまいましたが、中本さんが実際に現場にいらっしゃった時に、会社がまずくなってきたなと実感し始めた時期っは、だいたいいつ頃でしたか?

中本:そうですね……セガサターン用ソフトの開発をしていた頃から、「だいぶまずくないか?」っていうのはありましたね。

Q:開発費が高騰したとか、セールスが芳しくなかったということでしょうか?

中本:はい、そうです。その頃になると、プレイステーションタイトルの『マジカルドロップ』は自社での成功例だったと思うんですけど、それ以外では、例えば『慟哭そして…』のような、作家さんや原画担当の方にどうしてもすごくお金を使うタイトルが増えていったんです。しかもグラフィックの量が増えましたので、その制作費とかが高騰すると、話題性が出て評価もそこそこ受けたとしても、本数がそれほど伸びなくなるというようなものが、大型タイトル化しつつリクープしにくくなってしまうと。昔の体力があった頃はまだ頑張れたんですけど、もうそこまでの体力がその頃には残っていなくてという感じでしたね。

ですから、これを最後にもうディクリーズしたと言う感じでしょうか。仲間はちょっと、まあ、私たちが話を聞いた時は、もうクラクラで倒れそうになった社員もいたっていうのは、いまだに覚えていますけども。扉には鍵がかけられみたいな感じで。それまではもうオープンな感じで、大学ノートにびっしり書いて「俺のゲームを見てくれ!」っていう、高校生みたいな人がいる時期もあったんですけどね。そういうような感じが、やっぱ、その頃になると、主要な人も大分抜けちゃっていました。

私のほうでも、会社の外から「こっちに来いよ」みたいな話をもらったりしていました。でも義理があるし、自分は古い人間なので、そう簡単には離れられないんだよなとは思っていたのですが、とある時期に社長の決断がありまして、「ああ、ついに社長、その決断をなさるのね」っていうことになって、どこまでもついていくつもりだったんですけど、それだけはちょっと受け入れられないみたいなことがあったんです。

当時の社長の心理状態を考えたら、明らかにそういうことを言えない人なので、本人の名誉のために詳しいことは言えませんが、ゲームメーカーとしてあるまじきことを発言されたのを機に、私のほかにもそれを聞いてしまった人がいたのですが、それまでは骨をうずめるまでいようと思っていた人間も、そのタイミングで辞めてしまったということもありました。まあ、経営者としてはしようがないと言いますか、うまくいっている時期の経営者としては良かったというか、いい意味でも悪い意味でもいろいろなことをやらせてくれて、こんなに自由で可能性がある会社はないなあと。ゲームにも表れていますよね。『チェルノブ』とか変なゲームばっかり作って、「普通はこれ、企画でハネられるよね」みたいな、ちょっとありえないものばかりで。

Q:『チェルノブ』は当時、新聞でも叩かれましたよね。

中本:テレビの『トゥナイト』とかでも叩かれましたね。取材の仕方は全然違うのに、実際に放送された時には、意図的に編集されて悪意の塊のようになったりしていましたので、当時の開発部長はすごく怒ってましたね。まあでも、それだけのことはやっていたよねっていう。

Q:しかも、『戦う人間発電所』なんてサブタイトルも付いていましたからね。

中本:ですよね。しかも、名前が『チェルノブ』ですから、今だったら会社ごと本当につぶされてますよ(笑)。あれはゲーム文化のなかにおいて、変な花を咲かせていたものでしたね。技術に関しても、吸収できることは何でもやらせてくれました。コピープロテクト対策で、結構当時はまだマイナーだったんですけどディスクハッカー、マジコンが当時あったんですよ、ゲームソフトをコピーするやつですね。で、マジコンはどんなものかと言いますとディスクシステムなんです。ソフトのデータをディスクシステムへ物理的に吸い出して、それを専用のRAMアダプターで再生するみたいなものまで出てくる始末でした。

最初はROMカートリッジを2個挿して、ただ単純に焼くだけでコピーできたものがあったんですけど、それはバンク切り替えチップをいろいろ変えたり、あるいは先程も言いましたように、他社さんではもういろいろなチップを作っていましたので、その全部に対応したものを作るのは物理的に無理ですから、これらのカセットは普通はコピーができないんです。でもマジコンは、その専用チップが載っているカートリッジが何か1種類あれば、データ部分を差し替えて使えちゃうという、もう手強いと言いますか、中国恐るべしみたいなものだったんです(笑)。

ディスクハッカーは多分国産なんですけど、ディスクを入れ替えることでコピーできてしまうのに、ディスクハッカー自身はコピーができないとか。そういうことがあった時には、私が中の仕組みとかを解析させられました。

Q:一時期、ファミコンソフトのコピー業者がほんの一瞬ですけどはびこって、マスコミに叩かれ出したら一斉にいなくなった時期がありましたよね。

中本:ええ。もうサーッといなくなっちゃったんですけど、その時には対策とか対応を、「バンク切り替えチップとかの解析もできるんだから、そういうのもできるだろう」ということで、プログラマーでも何でもなかったんですけどやらされました。ディスクハッカーは、ひと晩でディスクハックできるようになりまして、ディスクハッカーがコピーできない仕組みを特定しました。ディスクハッカー自身もコピーできるようになって、「こういう動きをしてましたよ。ここを見て動いてますよ」っていうことを報告して、「じゃあ、売り出しても大丈夫だね」とか言われましたね。もう本当に、全然関係ないないことまでやらされましたよね。「何だよこの会社、面白いじゃねえか!」って(笑)。

Q:しかも、まだ大学を出たばかりのお若い頃に重要な仕事を任されたわけですから、なおさらすごいですね。

中本:まだペーペーな、最初の3年間くらいはこき使われましたよね。今だったら三六協定に絶対引っ掛かりますね。徹夜なんて当たり前ですし、リリース前になったらもう泊まり込みで、カップ麺ばっかり食べるので太りましたね、その時は……。

Q:まさにそういう時代だったんですね。物の本とかにもよく書かれていると思うんですけど、そのような仕事の幅の広さですとか、自由さがあったのは中本さんだけだったのですか?それとも、ほかのデータイーストのみなさんもだいたいそういう目に遭っていたのしょうか?

中本:もう適性があれば、みんなそんな感じでやらされていましたね。

Q:すみません、たいへん失礼な聞き方で……。

中本:いえいえ。でも、本当にそうでしたね。適性があったら、あれもこれも何でもやらされました。「ゲーマデリック」は、当然サウンドチームの社員が中心でしたが、そうではないもの、例えば宣伝広告とかであれば、チラシを作るときのキャッチコピーを、もしうまい人が誰かいたら、そういう人たちがガンガンやったほうがいいよねとか。あるいはグラフィックの人が、グッズ用のデザインも作ってみたりとか、いろいろとやらされていたと思いますけど、私はちょっと特例だったかもしれないですね。でも、ここまで1人にいろいろやらせたら普通はダメですよね(笑)。

Q:でも、それは自由にいろいろなことができる社風があったからということですよね?

中本:そういうのは確かにありましたね。特に、営業の人員は足らなかったので、必要な時には増えて、日頃はそんなにいらなかったりする部署だと、借り出されたりもしましたね。ショーの説明要員とかを、開発の人間ばっかりで担当したりして。

Q:あるいは、コンシューマーの人数が足りなくなったら、業務用から人が借り出されたりたりとかしたのでしょうか?

中本:それもあることはあったんですけど、お互いに借りたくない、貸したくないという、業務用と家庭用とでそれぞれにこだわりがありましたね。家庭用は制限の中での究極を目指していて、業務用のほうは、今考えると自由でも何でもないんですけど、色数が何万色も使える中での究極を目指す。でも、声の出演とかになると、「こんな声が欲しい」と言われたら、もうそんなのは関係なしでマイクの前に立たせていました。私も立たされましたね。

Q:最後の質問になりますが、今から振り返りますと、ゲーム産業は日本ですごく大きく花開いたと思いますが、個人的な感想で結構ですので、なぜ日本でこんなにゲーム産業が大きくなったとお感じですか?

中本:まず基本は、やはりお客様が遊んだ時にどう思うか、どう感じるか。「こういう体験をさせてあげたい」「こういう気持ちに、もし自分がなったら楽しいな」という、日本独特のおもてなしの心が決定打なのかなと思っています。アメリカのゲームですと「ヘイ!俺、こんなの考えてみたぜ。ついて来いカモン!」みたいなのが割と多くて、「人もバンバン殺せるぜ、イェーイ!」みたいなものが突然売れたりとかしますけど。日本でも、確かにそういうゲームはあるのですが、基本的には「こういう気持ちになってほしい」「こうなったら楽しいよね」「こうなったらワーッと盛り上がるよね」ということを主体に考えるところが、ちょっと違うんじゃないかなと思っております。

それに加えて、ある程度の検閲機関的なものが、任天堂の初心会とかスーパーマリオクラブですか?
電通が始めた、ああいうような所で一定の評価をしたり。ウチは好き放題やっていたんですけど、行き過ぎた部分はそこでブレーキが掛けられていたんですね。その結果、アバンギャルド度が100のものを受け入れることができないお客さんにも、そこで「10くらいなら大丈夫」って薄められたりしていたんですね。

当時はプンプン言いながら、任天堂のダメ出しに答えたこともありました。例えば、『メタルマックス』で黒焦げの死体が出てくるようにしたら、「黒焦げの死体はダメです」って言われましたので、「じゃあ、普通の肌色の人間にしよう」と差し替えたら、「こっちのほうが生々しいじゃん」ってなったこともあったんですけどね(笑)。まあそんな感じで、とにかく言われたことをちゃんと聞いて直さないと出してくれなかったんです。でも、そういう表現上の注意とかは企画のなかにも徐々に浸透していきましたし、業務用でも『チェルノブ』で懲りたのか、その後はひどいものは出ていないと思います。

Q:『チェルノブ』の後も、データイーストからは良い意味でバカバカしい、面白おかしい演出を取り入れたゲームがたくさん出ていた印象はありますね。

中本:はい。『トリオ・ザ・パンチ』とかがありましたよね。あれを作った井伊さんという企画が、もう本当に天才か奇人かっていうような人間だったので、キャラクターとかがあんな感じになったんですよ。やっぱり日本では、みんな基本的なおもてなしの心を必ず持ってるんじゃないかなと。そこが他社さんも含めて、日本と海外のゲームとの一番大きな違いではないかと思います。

ハードが良かったとか、確かにそういう面もあったかもしれませんが、アタリのようにならなかったのは任天堂のお陰で、もう足を向けて寝れないのかなあとも思います。山内さんが何度も仰っていた、「ダメゲー、クソゲーが世の中にあふれかえっている。マルチメディアというものがあるのならば見せていただきたい」とか、名言をたくさん残されていましたよね。そういう考え方に、少なくとも当時ゲームに携わっていた者は耳を傾けたに違いないと。私もその1人でしたし、そこはもう間違いないのではないかと思いますね。

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