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ファミコン神拳 伝承者 ミヤ王

ファミコン神拳 伝承者 ミヤ王
宮岡寛
Profile

山口県防府市出身。早稲田大学第一文学部在学中に小池一夫劇画村塾を経て、フリーライターとして活動開始。1982年卒業予定のところ、中退してライター業に専念、アスキー、小学館、集英社等の媒体で執筆しながら、1985年『ファミコン神拳』にミヤ王として立ち上げから参加。『ドラゴンクエス卜Ⅰ』『Ⅱ』『Ⅲ』にシナリオ•アシスタン卜として参加したことを契機にゲームデザイナーとして1988年に有限会社クレアテックを設立。『メタルマックス』シリーズ、『タワードリーム』シリーズ等を手がける。

「生活も人生も大きく変わったのは間違いないですね」
人の縁が創作へと駆り立て続ける、ミヤ王の奥義!?

『ファミコン神拳』中心メンバーとの出会い。

——宮岡さんがライターとしてお仕事をされることに なった経緯をお聞かせください。

宮岡:元々僕はさくまあきらさんの下っ端というか弟子のような感じでライター業界に入ったんですよ。小池一夫劇画村塾という、漫画家や漫画原作者の養成塾があって、僕とさくまさんがそこの一期生で同期だんです。そもそも僕は古くからの友人だった山本貴嗣1)に誘われて行ってただけで、あまり熱心な生徒ではなかったんですけどね。僕が大学をやめてフラフラしていたときにその山本が僕をさくまさんに紹介してくれたみたいで、それがきっかけで僕はさくまさんの下で働きはじめることになったんです。

そのさくまさんが、ものすごく顔の広い方で、堀井さんとは大学時代からのつきあいだつたし、土居さんのことはイラストレーターとしての才能を当時から見抜かれていて。『ジャンプ』の鳥嶋さんともお仕事をしたり。さくまさんを中心とした人間関係の中で、僕もいろんな方と面識が広がっていったんです。

——『ファミコン神拳』のメンバーや『ジャンブ』の関係者とは連載開始以前から面識があったのですね。

宮岡:面識がある、という点で言えば、キム皇とも古いつきあいなんですよ。彼とは小学校5〜6年で同じクラスだったんです。中学は別で、高校でまた同じ学校になったとき、僕が文芸部の部長で、キム皇も文芸部に入つてそこから親しくなつて。その同じ文芸部に山本貴嗣もいたんです。余談ですがその文芸部の副部長だった子が僕の妻だったりするんですけどね(笑)。

——漫画家の山本先生も、『ファミ神』のキム皇も、宮岡さんのお仕事に深<関わる方がいずれも少年時代からのご友人というのは、すごい縁ですね。

宮岡:キム皇とは当時バンドも組んですよ。彼がベースで僕がボーカル。ドラムは他校のうまい人がいので、いないときは僕がドラム。ディープ・パ—プルのコピーをやったり、自分たちのオリジナルも作りましたよ。僕が詞を書いてキム皇が作曲したり。当時、彼の家が教会だったんですけど、教会にはピアノとかがあるし、ステージのような壇もあるので、楽器を持ち寄っては教会で演奏してました。夜遅くまでやってて牧師さんに「うるさい!」って怒られたりもしましたね(笑)。

僕が大学に入って上京してからは高田馬場のビリヤード場でボーイのバイトをやっていたんですが、そこに彼も玉を突きに来ていて。

それで社会に出ると僕はライター、彼は校正の仕事。お互い出版業界で仕事も近い者同士。そして住んでいるところも近かったので、彼がうちに遊びにきたときにAPPLE IIの楽しさを教えて、彼もAPPLE IIを買って遊んでましたね。

それで『ファミコン神拳』をミヤ王・ゆう帝の二人で始めたところで、これは二人では大変だ!と気づいて、ゲームが得意だったキム皇を、助っ人として引っ張り込んだわけなんです。

ファミコンが俺の人生を変えた!

——ファミコンの面白さを知ったきっかけは?

宮岡:『ロードランナー』ですね。もともとAPPLE IIにハマっていたおかげで、APPLE IIで出ていた原作の『ロードランナー』を相当に遊びこんでいたんです。ステージの作成機能がついていたので、キム皇と二人でお互いに面を作って「解けないだろ~」なんて遊ばせあって競ったりするくらいだったんですよ。

そうしたらある日、当時アスキーの『ログイン』で編集をされていた塩崎剛三さん――後に『ファミコン通信』で東府屋ファミ坊として有名になる人がいるんですけど、彼から「宮岡君、『ロードランナー』に詳しいんだって?」と電話があったんです。ファミコンで『チャンピオンシップロードランナー』が出るので記事を書いてくれないか、と。僕は当時『ログイン』でパソコンゲームの記事などを書いていたのと『ロードランナー』に詳しいからといぅことで話が来たんでしょうね。聞くと『ゼビウス』とかいくつかの主要なソフトの攻略記事を載せた本2)を作るというので、僕も參加することになりました。

制作現場は編集部の借りた一軒家で、ライターたちが寛至目カンヅメこなってファミコンをやりながら記事を書いていたんです。僕が担当するゲーム以外にもファミコンのいろんなソフトが置いてあったので、担当のゲームを遊ぶのに疲れたら休憩として他のゲームも片っ端から遊んで。あれが本気でファミコンを触った最初の体験ですね。

それで遊んでみたら衝撃的です。APPLE IIもゲーム機としては有名でしたが、それよりも性能が良く見える。スクロールが綺麗だし、速い。絵も綺麗。なによりコントローラがすばらしい。APPLE IIのジョイスティックは入力方向が定まりにくく操作がつらかつたんですけど、ファミコンは入力したい方向にピタッと動く。意のままにコントロールできる。なんで十数万円のコンピュータより15000円くらいの機械のほうがすごいんだ!?こりゃあ売れるわ、と思いました。

——『ファミコン神拳』と同時期に『ドラクエⅠ』〜『Ⅲ』の開発にも参加されたと伺いました。

宮岡:堀井さんに誘つていただいてシナリオ・アシスタントとして参加した『ドラクエ』は、自分のゲーム作りの原点であるのは間違いないですね。

その後、ファミコンで某社から、とある新作RPGを、堀井さんが監修、僕がゲームデザィン担当で発売する予定で動いてたんですけど、完成させることができなかったんです。開発上でいろいろトラブルがあって。堀井さんにも迷惑をかけてしまって。

それで自分にはゲーム作りは無理かな、と思っていたんですが、広告代理店から「ゲームを作らないか」とお誘いを頂いて、最後にもう一度だけ挑戦してみようと。それが『メタルマックス』 です。企画段階からキム皇とカルロスも入ってもらって、キム皇は被自身もゲームを作ることになって初期段階で抜けることになったんですけどね。キャラクターデザインは先ほども名前の挙がった山本貴嗣だったんですが、広吿には土居さんの絵でミヤ王・キム皇・カルロスも出ていたんです。広告代理店が調査をしたら、ミヤ王の知名度が当時アイドルの菊池桃子より上だったらしくて。それで広告代理店が『ファミコン神拳』のミヤ王の知名度がすごいから広告に使わない手はない、ということでそうなりました。箱の裏や取説やアスキーの攻略本にも出てましたね。

独立して最初のゲームにも大きな影響があったし、今も知り合いに「ミヤ王」なんて呼ばれると「え!?」と驚いて振り向く人がいたり、握手を求められることもあるんですよ。『ファミコン神拳』で自分の人生が大きく変わったのは間違いないですね。

1)
山本貴嗣:漫画家。SFやダークファンタジーに造詣が深い。兵器や武器の描写にも定評がある。『メタルマックス』シリーズではキャラクターデザインやモンスターデザインを担当。コミカライズも手がけている。
2)
攻略記事を載せた本:85年にアスキー出版局より発行された『ファミリーコンピュータ秘攻略テクニック』のこと。堀井さんも「ゆう坊」としてコラムを寄稿している。